2017年07月13日

正義 それは盾と矛

昨日の続きを始めます。


戦争について、責任だけを追及する事は決して未来に繋がる
ことでは無いということを連日、語ってまいりました。
責任の所在は大切です。ですが、それは「一部」です。
とても重要な部分ですが、戦争を解明して「後世に役立てよう」と
考えるならば、責任を追及することに拘りすぎて、誰かのせいに
してしまわないようにすることが大切だと書きました。

第二次世界大戦が勃発した頃の日本も世界の民主主義も、
その他のイデオロギーを持った国家も、いずれも「未熟」な
政治と国家でした。日本では貴族院があった時代で、日中戦争の
大きな原因を作った「近衛文麿」は、この貴族院出だった。
公選に寄らないで「氏素性」だけで首相にまでなり、浅はかな
人間性も手伝って、独善的な外交と立法で、国を転覆させた
大きな責任が有ると言って良いと思います。

最近の安倍政権では、この闇のような政権時代に似た立法や
独裁的な政治によって、有無を言わさない行政を行えるような
気配すら感じられます。大変に恐ろしいことです。
これを危惧して連日、戦争について書いてきました。
第二次世界大戦を「センチメンタル」に捕らえて、また「責任転嫁」を
したり「他力本願」な平和への願いをしているようでは、とても
戦争を未然に防ぐ事は出来ません。

アメリカが、日本のことを「どのように」捉えて、位置づけしているのか、
いい加減、しっかりと真実を把握するべきです。アメリカにとって、
日本は「土地」でしかない可能性すら有ります。つまりロシアや
中国、北朝鮮などの敵国からの攻撃を「水際」で防ぐための「堤防」
としか考えていない可能性だって有るのです。武力を取り上げて、
平和思想を植えつけて、経済的に成長させたのは、有事のときの
「砦」になるからです。

誤解しないで欲しいのは私は「右翼」ではありません。戦争は、
勿論反対ですし、9条の改正も大反対です。軍隊など持つ必要は
有りません。そんなことをしても戦争は防げません。
連日書いている通り、戦争は一部の狂人だけで行われた訳では
ありません。善意に満ちた純粋な心が正義を行使し、勝利という
結果だけに固執した結果、義を失い、様々な惨劇を生み、悲惨な
歴史だけを残してしまったというのが戦争です。


妄信的に「自分」だけが正しいことをしていると思い込むことは、
大変な惨劇を生み出すことに繋がる可能性を持っていることを、
国民一人ひとりが肝に銘じておく必要があります。
これが世界中に広がれば絶対に戦争は起きません。起きる要素が
無くなってしまうのですから。


この「正義」について、昨日の記事に詳しく記しましたが、
正義の「定義」は「誰か」に教えてもらったものであることを忘れないで
頂きたいと思うのです。
自分で「正義」をコントロールしている
ような気になっていませんか?大切な事です。
分かりやすく言えば「善」と「悪」には基準が必要だということを
「生まれたばかり」の赤ん坊は知りません。そして「善」を定めるには
「悪」が無ければ成り立たないのです。善と悪は「一対」なのです。


前回の記事の中で思想教育は水面下で行われていると書きました。
我々日本人は「共通した」イデオロギーを持っています。
いいえ、違います。

なぜなら「正義」の定義は「時代」ごとに違っているからです。
政治や経済活動を見れば分かります。これらの活動を国が行使するときには
「ロジック」が必要になります。早く言えば立法や外交交渉の「理由」ですね。
それらが戦争前、終戦直後、高度成長期、バブル期、その後では
違っています。つまり、その時の国勢に合わせて「イデオロギー」を都合の
良い様に変遷させているのです。

学校で教える「道徳」もそうですが、一番怖いのは「教員」そのものです。
教師も世代に幅があります。20代から50代後半、それ以上の方まで、
その教師は全員「ステルス思想教育」を受けてきた人たちです。ですが、その
人たちの「親」は、やはり幅の広い世代の方々なのです。50代の教員の親ならば
80歳を超える「戦争体験者」の方が多くを占めるでしょう。この世代の方々は
一度持った強固なイデオロギーを全て捨て去れなければ成らなかった方です。
価値観に悩むというより、苦しみぬいた方々です。生きられれば良い、
そのためだったら何をしても良いんだ。極論を言えば、それに近い感覚を持って
いた方が多いと思います。その方々に育てられた子供たちは、アメリカが
与えてくれた道徳を「素直」に受け入れたのでしょうか。甚だ疑問です。
私が、そうでしたから。

現在20代の若い教師は我々50代の世代が育てた新しい教員世代です。
30代後半ならば60代の「ヒッピー」「ノンポリ」「リベラル」といった「自由」を
大切に生きた世代の親を持っているでしょう。いわゆる「団塊の世代」です。
このように世相によって、個人個人が「イデオロギー」を持てるようになった
日本は、「正義」を共通の価値観として持てなくなっていったのです。


7月6日、西東京市で女子中学生が、マンションから飛び降りて自殺を
図りました。まだ12歳です。とうとう、これについて触れなければならない日が
やってきました。精神的に相当きついです。

このニュースは世間を騒がせました。もっとも騒ぎになった原因は「断片的な」
状況情報が、憶測を呼ぶ事になったからだと思います。私も想像しました。

未だに詳細が発表されないのは、「いつもの」学校側の「大人の事情」が
絡んでいるのでしょう。情けない話です。ネットの憶測は、まず間違いがないでしょう。
私も一瞬で多くの声と同じように推測しました。なぜなら「都合の悪い」部分だけが
黒く塗りつぶされたような発表だったからです。


クラスで「謝罪」3日後、中1女子飛び降り死亡


東京都西東京市のマンションで今月6日、同市内の中学1年生の女子生徒(12)が
飛び降り自殺を図り、死亡していたことが捜査関係者への取材でわかった。
女子生徒は今月3日、クラスメートの前で謝罪していたといい、警視庁田無署が
詳しい状況を調べている。

捜査関係者などによると、6日午後7時頃、マンション関係者が、血を流して倒れて
いる女子生徒を発見。女子生徒は病院に搬送されたが、意識不明の状態で、
8日朝に死亡した。遺書などは見つかっていない。

女子生徒が通う学校の校長によると、女子生徒は今月3日、自分からクラスメートの
前で話がしたいと申し出て、授業が始まる前に反省の言葉を述べた。関係者によると、
女子生徒は当時、中学校の期末試験中の行為を巡り、悩んでいたという。


とニュースは発表した。
「クラスメートの前で謝罪?!」となる。読み進むと「自分から」とわざわざ書いてある。
そこは強調する「必要」があるのか?と誰もが感じるのではないだろうか。
つまり、教師か生徒の「どちらか」または「双方」が無理やり自殺した生徒に
謝らせたという「事実」は無かったんだと言いたいように受け取れる。きっとそうだ。
「テスト中の行為を巡り悩んでいた」、これも、なんだか玉虫色な表現だ。
こんなもの「カンニング」に決まっている。そして授業が始まる前に「反省の言葉」を
みんなの前で述べたと。馬鹿馬鹿しい。こんな間抜けな美談はイソップ物語だって
出てきやしない。
早く言えば「吊るし上げ」だ。それも教師が先導した吊るし上げ以外に考えられない。

もしもカンニング行為が本当に行われたとしよう。それは「悪いこと」なのだろうか?
ここが重要だ。連日記事を書いてきた理由が、ここにある。記事を読んで考えて
頂いた方を試すときだ。カンニングなどしていなかった可能性だってあるのだが、
事件と離れて、ここは、カンニングをした前提で考えて欲しい。
カンニングは「悪い」ことなのだろうか?

「いけないこと」ではない「悪いこと」だと思いますか?
「いけない」を辞書で引くと悪いの遠まわしな言い方とある。不思議だ。
「なぜ」悪いを遠まわしに言う必要が有るのだろう。これについても考えたい。
先に定義するが、カンニングは「不正行為」だ。読んで字の如く正しくない行為だ。
正しいの反意語は「おかしい」や「よこしま」などで、悪いとは出てきません。
屁理屈かもしれませんが、これから話すことにとっては重要です。

不正行為には「罰」が科せられる。試験においてカンニングをすれば、退場になったり、
採点をしてもらえない、つまり0点になったりする。刑務所に入ったり、罰金を
取られることも無い。これが普通の対応だ。決してクラスメートの前で謝罪させられる
必要など無いのである。では少し話を戻して「いけない」という言葉について考えて
みたいと思う。「いけない」は悪いの遠まわしな言い方だと書いた。そうだ。
では「どのような」時に我々は「遠まわしな」言い方をするのだろう。また「必要」と
するだろう。対象が「グレーゾーン」の場合と「相手を気遣って」使うときだろう。


最初に屁理屈だと言った様に私もカンニングは「いけない」ことだと思っている。
だが、これは「私の思想」だ。
この考えは、自らが行った場合に感じる「違和感」が基準になっている。
そして、この「違和感」は、まさに「教え込まれた」ものだ。


誰かに、カンニングはテクニックで、ばれなければ個人の技術で、どうにでも
使って良いのだから、しっかりとカンニングの技術を身につけることが大切だと
教え込まれれば、微塵も疑問に思わないでカンニングをするだろう。躊躇無くだ。
冷静に考えて欲しい。もしも資格試験のように4枝択1の問題を知識が無いから
勘で答えて、点を取ったとしても誰にも責められない。勘や偶然は許されるのに、
技術を使って点を取る事は許されないのだ。それは、ルールで定められているから
「正しくない」と言い切れるのである。


私は小学生の頃、サッカー少年団チームに参加していたことがある。
続かなかった。理由がある。嫌いに成ったからだ。
皆さん御存知のようにサッカーでは相手選手の体を掴んでタックルしたり、
ボールを取ったりしてはいけない。ウエアを掴んでやることも同様だ。
だが、私が初めて試合に出たときに、相手チームの少年が私のウエアを掴んで
ボールを取りに来たのだ。何度も何度も執拗に私が出ようとすると引っ張った。
私は「おい!!服、持っちゃ駄目なんだぞ!!ルール違反だぞ!!」と語気を
荒げて言うと、その少年は黙ったまま「腐った目つき」で私を睨んだのだった。

今でもサッカーは嫌いだ。なぜならワールドカップだろうが、オリンピックだろうが、
世界のトップ選手が、このルールを守って試合をしている姿を見たことが無い。
笑うかもしれないが、他のスポーツでは、これは「有り得ない」ことなのである。
ルールを侵してでも「勝てば良い」、それが、皆が夢中になるサッカーなのである。
これは戦争とロジックが全く同じだ。ご存知だろうか戦争は法律で定められた
ルールがある。戦時国際法という。

そんなものを守っていたんじゃ勝てやしない。そう思われたら、もうお終いなのである。
話を戻そう。
カンニングをした生徒は教師に「とがめられた」だろう。教師は、恐らく生徒のことを
真摯に思って「クラスメートに謝罪」することを「提案」したのであろう。だから、この
「自ら申し出て謝罪した」という、カンニングするような生徒が心を改めて、
みなさん、ごめんなさい。私は悪いことをしました。なんていう有り得ないシーンを
生み出したのであろう。まだ中学1年生。学校生活にも馴れたか馴れないかの7月。
13歳の誕生日も迎えていない、ついこの前まで小学生だった女の子が、「担当教師」に
諭されれば「いや」とは言えないのである。そんなことも「この教師」は分からなかった
のだろうか。ここが一番憤る。女子生徒に「罪悪感」が無かったとは到底思えない。
有ったからこそ、謝罪要求に従ったのだろう。
そして考えたくも無いが、もしもカンニングの事実が無くて、完全な冤罪で謝罪させられ
たとしたら、担当教師は地獄へ落ちるだろう。

そして「自ら」という言葉を発表した学校も、なんと「責任転嫁」の準備が早いのかと、
落胆させられると共に、学校という狭い「社会」の恐ろしさを改めて感じた次第である。
これこそ戦争の勃発と同じ構造なのである。

少し話が逸れますが、最近、私の娘が通う中学校の教師に話をしに行ったことが有ります。
部活動のことで話をしましたが、言いたかった事は部活うんぬんではなく、個人の
扱い、つまり「相手を慮る」ことの重要性を話してきたのです。生徒というくくりではなく、
人は、それぞれです。例えば「能力」も様々、そして「表現」も様々なのです。
運動が得意な子がいたとします。一生懸命に取り組んで結果を残したり、残せなかったり、
それでも「手に取るように」努力をしたのが分かる子供と、淡々と部活に参加し、同じように
結果を残せなかったり、残したりして、3年間を過ごしたとします。さて、淡々とし、
声を荒げることも無く、顔を腫らさず、汗を滝のように流さず、声は枯れず、号泣することもなく
スポーツをした子供は、努力もしなければ、真剣に取り組んでもいなければ、夢中になって
参加していなかったのでしょうか。ないです。

スポーツは不思議です。走っている時だって、玉を追いかけている時だって、
もう、その瞬間は何も考えていません。その1点だけに集中しています。誰だってそうです。
人それぞれ表現の仕方が違います。もしも一生懸命にやったなら涙のひとつも流すだろうと
「個人的なイデオロギー」で生徒を判断、区別をしているとしたら大変な問題です。
人の優劣を「個人的なイデオロギー」で付けている事と同じです。連日書いてきている、
「妄信的に自分は正しいことをしている」と思い込むことと同じなのです。
教師は無意識のうちに個人的なイデオロギーに基づいて、正義の行使をしていることに
無頓着です。普段から採点や評価をしているせいで、自己の価値観で人を判断する習慣が
身に付いてしまっているのです。

話を戻します。
自殺した生徒を「指導」したかったのでしょう。未熟でしたね。「吊るし上げ」という言葉や
状態を知らなかったのでしょうか。ドラマの見すぎじゃないでしょうか。愚かです。
確かに亡くなった子供も「弱い」です。ですが、そこについてが「第一声」では、問題は
解決しないばかりか、また同じ事件が起こるでしょう。戦争と同じなのです。
戦争の「責任」、つまり「誰が悪い」が第一声では、戦争は無くなりません。正義を妄信的に
振りかざす事は暴力だと書いてきました。この「逆らえない状況」を作り出しての謝罪も
暴力なのです。担当教師が、これに気が付いてくれたであろうことを祈るばかりです。

これまで書いてきたことは、決して戦争や自殺事件の究明ではありません。
今日の記事の冒頭に責任を追及することに拘りすぎて、責任を転嫁、もしくは集約させては
今後に役立てる事は出来ないと書きました。それが目的で綴ってまいりました。
現代の社会では思想教育がなされている場所は限られています。宗教施設や、
その団体が運営する私立学校。そして忘れられがちな「義務教育の現場」なのです。
日本の学校では「集団行動」「集団意識」を基本にして運営されています。
つまり「イデオロギー」は、一つでなければ都合が悪い事になります。これはムッソリーニの
「全体主義」、「ファシズム」と同じです。戦前の「学校」となんら変わりありません。

個人の意見は極端に尊重されません。ルールという名の「流れ」に逆らうものは、
矯正させられます。または排除されます。義務教育ならば登校するなとは言えませんから、
「黙殺」されます。ファッショです。正義について、もっと良く考えなければいけません。
妄信的に正しいと思い込み、それを行使する事は、原爆のスイッチを押すのと同じなのです。
第二次世界大戦も少女の飛び降り自殺も、全て「正しい行い」をしたと思って起こった
惨劇です。頼むからという想いです。

この三日間の記事のタイトルは分かりにくいですよね。ざわとです。私は「正義」は、
じつに掴みどころの無い「分かりにくい」存在だと思っているからです。

「正義 それは丸で逃げ水」
これは、遠くに見える正義の到達点を追い求めても、そこには正義の実態は無いのだと
言いたかったのです。正義は人の内側に存在します。

「正義 それは夜空に輝く星」
我々は天文学者でもない限り、星は光であって「天体」を見ているとは思っていません。
光は何万光年も昔に放たれた実体では無いのに、目に見えるものだけを真実として、
その向こうにある存在を忘れています。正義は思想であって「行い」ではないのに、
我々は、正義の在り処について考えるべきなのです。

「正義 それは盾と矛」
正義は、全てのものを打ち砕く、この世の真理の集約だと誰もが思っていたとしたら。
それは原爆程度の愚かな武器にしか成り得ないという事です。
二人以上の人が各々が正義だと主張したら、終わりの無い戦いを生み出すのです。

これまでの記事を良く読んで、改めて戦争と平和について考えていただきたいと
強く強く願います。大変な長文で話も上手にまとめられませんでしたが、これが
私の戦争と正義と平和への想いなのです。

正義 それは盾と矛


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Posted by アーバンギア at 19:23│Comments(2)あれこれ
この記事へのコメント
ご無沙汰してます
同じニュースで、ずっともんもんとしています。
教員に制裁が加えられることを願ってしまうというか
彼女の命を奪った責任を、誰かとってくれと
思わずにはいられないのですが
これも、戦の連鎖ですね
別の記事で
「都教委によると、女子生徒は3日、保護者や学校とも話し合った上で、自らの試験での行為について、教室で同級生に説明する場面があった。」
というのを見つけて、
あー、親もかと
もう救いようがない
娘の名誉のために、これ以上は、どうか穏便に
となりそうですね
自分の名誉でしょうか
Posted by KS at 2017年07月13日 22:42
KSさん:

いやぁ~!!!お久しぶりですね~!!!
KSさんに、コメント入れていただいたのは、ここ最近の
出来事の中で一番嬉しいですね、ガチで!

さて、この事件。あれから全く情報が出てこなくなってしまい、
世間の記憶からも遠ざかりつつありますよね。
それを狙っているんでしょうか。まぁでも、ここで責任だの、
今後の再発防止に努めたい的なことを、ごちゃごちゃ
やったところで、この件に関わった人たちの心に何か「まし」
なものが残るとは思えないですよね。

非常に、やるせないです。
Posted by アーバンギアアーバンギア at 2017年07月17日 09:48
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