2017年07月31日

明暗

こっちが、こっちで、あっちは、あっちってことが
良く分かった。  

Posted by アーバンギア at 17:09Comments(0)あれこれ

2017年07月29日

絵を描くこと

今日は一日「絵」を描いていました。


まぁ頼まれたからなんですけどね。
「ただ」ですよ。基本的に本職に「ただ」で「ちょちょっと」描いてよ
的な事は、止めた方が良いですね。今回は私から申し出たので
構わないんですけどね。

朝の6時半には設計を始めたのですが、子供を下界に送らなければ
ならなかったので、中断。なんか「根詰めて」やりたい気分だったので、
昨日依頼があった「グラフィックデザイン」を久々にやったと。
私は建築も絵なんかも学校に入って勉強した訳ではありません。
アスペルガーなので、人に教わるのは向いてないですしね。
建築も絵画も別に教えてもらうような必要も無かったですし。
まぁ建築は、そうは行かなかったですかね、流石に(笑)

「人間万事塞翁が馬」
絵を描くのが得意でしたよ、小さな頃から。好きでしたよね。
私は結構「近所」の子供や学校のクラスメート、それに「先生」なんかにも
「煙たがられて」いましたね。苛められていたっていう気持ちでしたね。
で、結論から言えば私は人とコミュニケーションを採るのが下手だったって
訳ですよね。コミュショーですよ(笑)
今では「口が達者」だと、一周回って嫌われていますが(笑)
なんだよ、どっちみち嫌われもんかいな?!とね(笑)良いです。

で、小さな頃は本当に「ひとりぼっち」で絵を描いていましたね。
兎に角「楽しい」ですし、そもそも誰も居ないですから「傷つかない」で
済みます。これは私にとっては重要です。絵を描いていれば悪さもしないし、
母も出来上がった絵を褒めてくれますしね。良い子になった気分が
味わえるってもんです。まぁただ、なんでもかんでも「文句」を言いたがる
母だったので、終いには「絵なんかばっかり描いてないで勉強しろ!!」
なんて、どやされていましたね。懐かしいです。

私は、没頭する方です。アスペルガーの特徴ですね。仕事も、一旦始めると
寝ないでも、やっていられるくらいです。勉強もそうでした。
ギターを弾くこともね。

さて今日描いていたのは「アカショウビン」。カワセミの仲間です。くちばしは
作り物のように「真っ赤か」。私の好きな「ランコム」の口紅のC162番あたりに
似てますよ。体もオレンジ色で、本当に奇跡の美しさです。
可愛いですね。で、特徴的なのは「鳴き声」です。
ピヒョロロロロ~ピヒョロロロロ~って鳴くんです。初めて聞いたときには、
一体なんの鳴き声なんだろうって思いましたね。もう何もかも特別感が有る
鳥です。

絵を描くのもギターを弾くのも、そこそこ金も掛かります。
ですが、享楽的に時間を消費することを思えば、もう殆ど「ただ」に近いです。
今日は安倍川の花火大会ですね。なんとか雨も大丈夫そうです。
家にいるのは私と長男だけ。まぁ似たもの同志です。(笑)
絵を一日描いていて幸せだった。それも「建築」でなくて「鳥」の絵だ。
生き物を描くのは本当に楽しい。人を描くのより楽しい。
それは手に取ることが出来ないものを、いつまでも思考し、また「見つめて」
いることが出来るからだ。

なにが救ってくれるか分からない。
ただ私のような人間に御先祖様が、孤独を辛く生きないで済む様に、絵心を
授けてくださったんだと、しみじみと思うのであった。


  

Posted by アーバンギア at 15:34Comments(2)あれこれ

2017年07月28日

怒っています。

とても怒っています。
ですが悲しんでもいます。
消沈もしています。
そしてやはり悲しいです。  

Posted by アーバンギア at 21:45Comments(0)子育て

2017年07月25日

運転免許更新

今日は運転免許の更新手続きに行って来ました。


ゴールド免許だったんですけどね。駐車違反を
1回切られて、青に逆戻り。違反者講習が面倒だなって
思ってったんですけど。良かったです。

凄く良い話が聞けて、もしも違反してなきゃ聞けなかった
のかって思ったら、深々と深呼吸してしまいました。
講師の方にも感心してしまいました。そこが大きいです。
あそこで働いている方は元々は警察官の方が多いですよね。
正直「講習」を「ありがたい」ものだと感じて受けている
人など「ただの一人」だっていやしないでしょう。
そんなことは講師の方も重々承知している訳ですよね。
っていうか、もしも自分が受ける羽目になったら。
真っ平御免だとなるでしょうしね。

もう全身全霊だったです。なんとか受講者の「貴重な1時間」を
「こんなとこにくるんじゃなかった、ああめんどくせー」という
完璧なマイナスイメージだけで帰らせては、逆に安全運転への
配慮が失われるんじゃないかと考えているかのようでした。
少なくとも私は、そう感じました。
話し方にも工夫を凝らしていて、しっかりとパワーポイントも
使いこなし、短時間に最低でも伝えておきたい「想い」を
しっかりと「ぴったり1時間」でまとめたのですから。
思わず拍手を贈ってしまいました。会場からも自然と拍手が
沸き起こりました。

講師の方が一番最後に話された高説が堪らなかったです。
「みなさんに魔法の言葉をお教えします」と仰られました。
話の内容は割愛しますが、その魔法の言葉とは
「ありがとう」「感謝します」の二言でした。

どんなに嫌な事に出会ったって、目の前の人でなくても構わない、
とにかく呪文のように「ありがとう」と唱えてみてくださいと
仰られました。同じく、どのような境遇でも、また不可能と思える
ような夢にでさえ、既に叶ったと思って「感謝します」と唱えてくれと
「力説」されていました。

確かにその通りだと想いました。相手を恨む心で力任せに罵った
ところで、何処にも誰にも幸せな気持ちの芽は出てきません。
それどころか、どう考えても理不尽な仕打ちを受けた相手にさえ、
ありがとうと言ったら、相手ではなく「自分」が「有り難い」存在に
なれるのですから。

講習を終えて車を駐車場から出そうとしたときです。
先ほどの講習会場に同席していた若者が、原付のスクーターで
私の進路を遮って、物凄い勢いで飛び出して行きました。
私の感情は一瞬だけ脈を打ちましたが、直ぐに「ありがとう」と
言ってみました。どうか、あの若者が無事に帰宅できるよう祈りました。
一瞬ヒヤッとしましたが、彼を、はねてしまわないで本当に良かったと
心から感謝できました。

感謝は誰かにするものでは無いと思ったのです。もちろん対象が
あっても良いと思います。ただ、感謝は対象が無くても、いつでも
どこでも出来るものなんだと初めて知った次第でした。  

Posted by アーバンギア at 20:56Comments(0)あれこれ

2017年07月23日

100万アクセスを超えました

100万アクセスは多いですかね。
芸能人なら1日で達成ですよね。

凡人の歩みです。  

Posted by アーバンギア at 20:40Comments(2)あれこれ

2017年07月22日

心霊体験

昨日、心霊体験しました。
次男も驚いていました。

凄くカーネーションの匂いが
良かったです。気に入ってくれたんだ。
すぐに分かったよ、おかあさん。  

Posted by アーバンギア at 22:56Comments(0)あれこれ

2017年07月21日

おかあさん

早いもので一年が経ちました。
大きな穴が空いてしまったままのものもいます。

存在は意識して初めて存在できるのですよね。
生きていても意識しなければ「無」と同じです。
つまりは生きていなくても意識すれば「有る」のと
同じことです。いますよね。みんなの意識の中に。


※一年前の記事を転載します。

今朝8時7分に家内の母が人生を全うして帰ってゆきました。

がんを患っていて、3年くらい闘病が続いていたのかな。
ずっと元気だったので、やはり最新の医療は凄いなぁなんて、
勝手に思っていたんですけどね。

時々訪れる家内の実家には、いつだって、お母さんが笑顔で
待っていてくれましてね。お父さんって人は、お母さんとは
対照的で、決して偏屈ってんじゃないですよ!私なんかと違って、
でも、お母さんの明るさってのは「無責任」なほど人の気持ちを
楽にさせる人でしたね。

うちの子供たちも「ばあば」が大好きですね。
超人気もんですよ(笑)
まぁもう死んじゃったんだから、何を言っても語っても
仕方ないんですけどね。語ろうと思えば、もう何時間だってタイプ
していられるだろうし。まぁそれもね、面倒だし(笑)

私は早くに母をなくしたので、義理の母でも、本当の母親だと
思って大切にしてましたよ。
家内は「もらってくる」ことは、あっても「もってった」ってことは、
まぁないですよね。一緒に母の日に、なんか買いに行ったってのは
ありましたけど。今年は「どうしても」家内に「苦労した」ものを
お母さんに持って行かせたくて、蕗の皮むきをやらせましたね。

今際の際になって、なにをするたって、もう何も出来やしないです。
私は自分の母を失ったときに、それを痛切に感じました。
それでも子供ってのは可愛らしい、愛しいものだと家内に改めて
教えてもらいましたよ。
ベッドで横になっている、お母さんに、ずっと話しかけている姿。
生きているうちにしか出来ないことがある。死んでしまったら、
もう何を言ったって、やったって「返事」もしてくれないんだからと
言うと「うん」と言っていました。

まぁ私は御霊について、物凄く存在を大切に思っているので、
墓石を磨いてあげただけだって、ちゃんと礼を言ってもらっていると
思ってますが、もし信心も無いような方が、この記事を読まれている
のであれば、ただの地味な色の「石」を磨いたり、誰もいないような
寂しいところに「いかにもお供え」のような花を生けても、
リアクションの薄さに、益々ご先祖様を敬えなくなりますから、ご注意を!

ああ、寂しくなるな。
もう正月に年始の挨拶に行っても、あの顔が無いんだ。
母の日も「ありがとう」の声は聴けないんだなぁ。
まぁでも一番、心に大きな穴が開いてしまったのは、お父さんだろうな。
親子の分かれってのも、しんどいけれど、やはり長年連れ添った
伴侶との今生の別れは尋常じゃない喪失感だろうな。
「新しい家庭」「新しい家族」を、たったの二人から始めたのだから。

こうして親の死に直面して、自分も50を過ぎて、どんなに生きても
あと20年で、こんな感じで死んでゆくのかなとか思ったりしてね。
家内を看取るのは誰なんだろうとか想像したり。

呼吸の止まった、お母さんの亡骸のそばに立っている、お父さんが
「お母さん、いなくなっちゃうんだよな」と小さく呟きました。
私は「そんなことない、そこに立ってるよ」と心の中で思いましたが、
今のお父さんには「いつもそばにいた」お母さんが完全にいなくなってしまうと
思う他に、この現実を理解する事は出来ないでしょう。
しばらくずっと「いなくなって」しまった生活を、お父さんは生きるでしょう。

でも、やがて感じる日が来るはずです。
お母さんの存在が永遠であるということを。

ぽっかり空いてしまった心の穴を埋めることなんて一生出来ません。
代わりの存在なんて無いんですから。
埋める必要なんてありません。開いた穴には同じものを重ねれば良いです。

お母さんは寝てなんかいません。今は、癌の痛みと苦しみから
解放され、自由を享受しているはずです。
今日のタイトルは「お父さん」と「家内」に贈る言葉です。
お父さんも看護で憔悴しきった様子でした。家内もクタクタだったでしょう。
さっき私が作っておいたカレーを食べて寝てしまいました。
寝れば良いです。
お母さんも、寝なさいと言っているでしょう。ここから数日「死んだもの」には
関係の無い「葬式」っていう儀式があります。
お母さんは、そんな儀礼を嫌っていましたが、残された者たちが勝手に
やります。しょうがないよ、お母さん(笑)

「あたしゃぁ、いーけどね~お経も何言ってるか分からないし、退屈だよねぇ」と
絶対に!!絶対に!!言うはずです!!!
まぁでもしょうがないよ、お母さん。
「悪いね~」と本気で恐縮している心霊写真が撮れるはずでございます。

おかあさんの「悪かったね~、ありがとうね~」が私の耳には、はっきり聴こえました。
いえいえ、こちらこそ「本当にありがとうございました」です。
私は言いたかったこと、ちゃんとお母さんに大きな声で言ったから良いもん。
「おかあさん、麻子を生んでくれて、ありがとう、本当に幸せだよ」って。

  

Posted by アーバンギア at 20:09Comments(0)あれこれ

2017年07月20日

無駄な努力

とある方のブログには「努力」が無駄であるかのような
記事があったんです。


まぁなんて言うか、努力は無駄では無いんでしょうけど、
悪あがきは「欲」が有ってのことだから、ムキになるなと
言いたかったんでしょうけどね。
人間中々、そうそう「無欲」には、なれませんな(T-T)  

Posted by アーバンギア at 20:37Comments(0)あれこれ

2017年07月19日

停滞

あれこれ進まず。参ったね。  

Posted by アーバンギア at 21:42Comments(0)あれこれ

2017年07月18日

自治 じち

真剣に転居を考えています。


今、住んでいる地域は恐ろしく「住みにくい」場所です。
ここに引っ越してきて、様々な「恩恵」にも預かりました。
でも暮らしにくい事は「マックス」ですね。

自治とは

自治には、個人の自治・集団の自治・地域社会の自治(地方自治)があり、
それぞれ問題状況を異にするが、自治に共通するものは自律autonomyと
自己統治self‐governmentの結合である。個人が他者の統制にしばられずに
自らの規範、準則、目的といった規準を定立し、自らの意見が自らの行為を
律する余地があるとき、そこに個人の自律ないし自治があるという。
自治はついで、自己の意思が自己の行為を統制する能力、意思を行為に
具現する能力を要件とする



自分たちのことを自分たちで処理すること。 「 -の精神」 「大学の-」

人民が国の機関によらず自らの手で行政を行うこと。特に、地域団体による
地方自治をさすことが多い。


ここの地域が住みにくと感じるもっともなところは「パラドックス」です。
つまり自治とは「個人が他者の統制にしばられずに~」と有る通り、
自分たちで考えた意思に基づく地域の統制が行わなければ成らないのに、
全く理解しがたい「付き合い」によって、それが実現できないという「ジレンマ」
に逆らうことが出来ないということです。

住みにくいです、田舎。
もっともっと、もっともっと自分たちが住んでいる「隣」のことを真剣に
考えなければ、今後「生きて」ゆくことすら出来なくなるのに、なんで「お祭騒ぎ」
ばかりにだけ、拘るのでしょうか。まったくもって現実逃避としか言いようがありません。
駄目な人に何を言っても駄目なんでしょうか...  

Posted by アーバンギア at 21:58Comments(0)あれこれ

2017年07月17日

集中できない

集中するってのは、ある意味「現実逃避」にも
繋がりますよね。生きていられるのかな...  

Posted by アーバンギア at 18:25Comments(0)あれこれ

2017年07月16日

そーゆーひ

祈り、願い、想い。

兎に角みんな幸せ目指そうって思ったっけ。  

Posted by アーバンギア at 22:58Comments(0)あれこれ

2017年07月15日

A house is not a home


家を設計している身では有りますが、家って「どれくらい」
価値が有るんだろうって、考えてしまうときがあります。
平日は勿論のこと、休日も「ほとんど」家には誰もいません。
うちだけでしょうか?

寝に帰ってくるだけ。夕飯を食うだけ。で、TVを見るだけ。
宿題?最近では三男など完璧「夜明け」まで車の中で
寝る始末。風呂に入るだけ?
まぁ住宅の機能は「フル」に使いきってますが...

「家庭」ってのは...家庭ってのは、さぁとかって思ってしまう
のは、「私」だけなんでしょうか...

  

Posted by アーバンギア at 21:36Comments(0)あれこれ

2017年07月14日

やっとやる気に

やっと大学行く気になったようです。


僕ちゃん、勉強しなきゃね!




このざま。おねーも、そろそろ受験勉強だね。  

Posted by アーバンギア at 22:03Comments(0)子育て

2017年07月13日

正義 それは盾と矛

昨日の続きを始めます。


戦争について、責任だけを追及する事は決して未来に繋がる
ことでは無いということを連日、語ってまいりました。
責任の所在は大切です。ですが、それは「一部」です。
とても重要な部分ですが、戦争を解明して「後世に役立てよう」と
考えるならば、責任を追及することに拘りすぎて、誰かのせいに
してしまわないようにすることが大切だと書きました。

第二次世界大戦が勃発した頃の日本も世界の民主主義も、
その他のイデオロギーを持った国家も、いずれも「未熟」な
政治と国家でした。日本では貴族院があった時代で、日中戦争の
大きな原因を作った「近衛文麿」は、この貴族院出だった。
公選に寄らないで「氏素性」だけで首相にまでなり、浅はかな
人間性も手伝って、独善的な外交と立法で、国を転覆させた
大きな責任が有ると言って良いと思います。

最近の安倍政権では、この闇のような政権時代に似た立法や
独裁的な政治によって、有無を言わさない行政を行えるような
気配すら感じられます。大変に恐ろしいことです。
これを危惧して連日、戦争について書いてきました。
第二次世界大戦を「センチメンタル」に捕らえて、また「責任転嫁」を
したり「他力本願」な平和への願いをしているようでは、とても
戦争を未然に防ぐ事は出来ません。

アメリカが、日本のことを「どのように」捉えて、位置づけしているのか、
いい加減、しっかりと真実を把握するべきです。アメリカにとって、
日本は「土地」でしかない可能性すら有ります。つまりロシアや
中国、北朝鮮などの敵国からの攻撃を「水際」で防ぐための「堤防」
としか考えていない可能性だって有るのです。武力を取り上げて、
平和思想を植えつけて、経済的に成長させたのは、有事のときの
「砦」になるからです。

誤解しないで欲しいのは私は「右翼」ではありません。戦争は、
勿論反対ですし、9条の改正も大反対です。軍隊など持つ必要は
有りません。そんなことをしても戦争は防げません。
連日書いている通り、戦争は一部の狂人だけで行われた訳では
ありません。善意に満ちた純粋な心が正義を行使し、勝利という
結果だけに固執した結果、義を失い、様々な惨劇を生み、悲惨な
歴史だけを残してしまったというのが戦争です。


妄信的に「自分」だけが正しいことをしていると思い込むことは、
大変な惨劇を生み出すことに繋がる可能性を持っていることを、
国民一人ひとりが肝に銘じておく必要があります。
これが世界中に広がれば絶対に戦争は起きません。起きる要素が
無くなってしまうのですから。


この「正義」について、昨日の記事に詳しく記しましたが、
正義の「定義」は「誰か」に教えてもらったものであることを忘れないで
頂きたいと思うのです。
自分で「正義」をコントロールしている
ような気になっていませんか?大切な事です。
分かりやすく言えば「善」と「悪」には基準が必要だということを
「生まれたばかり」の赤ん坊は知りません。そして「善」を定めるには
「悪」が無ければ成り立たないのです。善と悪は「一対」なのです。


前回の記事の中で思想教育は水面下で行われていると書きました。
我々日本人は「共通した」イデオロギーを持っています。
いいえ、違います。

なぜなら「正義」の定義は「時代」ごとに違っているからです。
政治や経済活動を見れば分かります。これらの活動を国が行使するときには
「ロジック」が必要になります。早く言えば立法や外交交渉の「理由」ですね。
それらが戦争前、終戦直後、高度成長期、バブル期、その後では
違っています。つまり、その時の国勢に合わせて「イデオロギー」を都合の
良い様に変遷させているのです。

学校で教える「道徳」もそうですが、一番怖いのは「教員」そのものです。
教師も世代に幅があります。20代から50代後半、それ以上の方まで、
その教師は全員「ステルス思想教育」を受けてきた人たちです。ですが、その
人たちの「親」は、やはり幅の広い世代の方々なのです。50代の教員の親ならば
80歳を超える「戦争体験者」の方が多くを占めるでしょう。この世代の方々は
一度持った強固なイデオロギーを全て捨て去れなければ成らなかった方です。
価値観に悩むというより、苦しみぬいた方々です。生きられれば良い、
そのためだったら何をしても良いんだ。極論を言えば、それに近い感覚を持って
いた方が多いと思います。その方々に育てられた子供たちは、アメリカが
与えてくれた道徳を「素直」に受け入れたのでしょうか。甚だ疑問です。
私が、そうでしたから。

現在20代の若い教師は我々50代の世代が育てた新しい教員世代です。
30代後半ならば60代の「ヒッピー」「ノンポリ」「リベラル」といった「自由」を
大切に生きた世代の親を持っているでしょう。いわゆる「団塊の世代」です。
このように世相によって、個人個人が「イデオロギー」を持てるようになった
日本は、「正義」を共通の価値観として持てなくなっていったのです。


7月6日、西東京市で女子中学生が、マンションから飛び降りて自殺を
図りました。まだ12歳です。とうとう、これについて触れなければならない日が
やってきました。精神的に相当きついです。

このニュースは世間を騒がせました。もっとも騒ぎになった原因は「断片的な」
状況情報が、憶測を呼ぶ事になったからだと思います。私も想像しました。

未だに詳細が発表されないのは、「いつもの」学校側の「大人の事情」が
絡んでいるのでしょう。情けない話です。ネットの憶測は、まず間違いがないでしょう。
私も一瞬で多くの声と同じように推測しました。なぜなら「都合の悪い」部分だけが
黒く塗りつぶされたような発表だったからです。


クラスで「謝罪」3日後、中1女子飛び降り死亡


東京都西東京市のマンションで今月6日、同市内の中学1年生の女子生徒(12)が
飛び降り自殺を図り、死亡していたことが捜査関係者への取材でわかった。
女子生徒は今月3日、クラスメートの前で謝罪していたといい、警視庁田無署が
詳しい状況を調べている。

捜査関係者などによると、6日午後7時頃、マンション関係者が、血を流して倒れて
いる女子生徒を発見。女子生徒は病院に搬送されたが、意識不明の状態で、
8日朝に死亡した。遺書などは見つかっていない。

女子生徒が通う学校の校長によると、女子生徒は今月3日、自分からクラスメートの
前で話がしたいと申し出て、授業が始まる前に反省の言葉を述べた。関係者によると、
女子生徒は当時、中学校の期末試験中の行為を巡り、悩んでいたという。


とニュースは発表した。
「クラスメートの前で謝罪?!」となる。読み進むと「自分から」とわざわざ書いてある。
そこは強調する「必要」があるのか?と誰もが感じるのではないだろうか。
つまり、教師か生徒の「どちらか」または「双方」が無理やり自殺した生徒に
謝らせたという「事実」は無かったんだと言いたいように受け取れる。きっとそうだ。
「テスト中の行為を巡り悩んでいた」、これも、なんだか玉虫色な表現だ。
こんなもの「カンニング」に決まっている。そして授業が始まる前に「反省の言葉」を
みんなの前で述べたと。馬鹿馬鹿しい。こんな間抜けな美談はイソップ物語だって
出てきやしない。
早く言えば「吊るし上げ」だ。それも教師が先導した吊るし上げ以外に考えられない。

もしもカンニング行為が本当に行われたとしよう。それは「悪いこと」なのだろうか?
ここが重要だ。連日記事を書いてきた理由が、ここにある。記事を読んで考えて
頂いた方を試すときだ。カンニングなどしていなかった可能性だってあるのだが、
事件と離れて、ここは、カンニングをした前提で考えて欲しい。
カンニングは「悪い」ことなのだろうか?

「いけないこと」ではない「悪いこと」だと思いますか?
「いけない」を辞書で引くと悪いの遠まわしな言い方とある。不思議だ。
「なぜ」悪いを遠まわしに言う必要が有るのだろう。これについても考えたい。
先に定義するが、カンニングは「不正行為」だ。読んで字の如く正しくない行為だ。
正しいの反意語は「おかしい」や「よこしま」などで、悪いとは出てきません。
屁理屈かもしれませんが、これから話すことにとっては重要です。

不正行為には「罰」が科せられる。試験においてカンニングをすれば、退場になったり、
採点をしてもらえない、つまり0点になったりする。刑務所に入ったり、罰金を
取られることも無い。これが普通の対応だ。決してクラスメートの前で謝罪させられる
必要など無いのである。では少し話を戻して「いけない」という言葉について考えて
みたいと思う。「いけない」は悪いの遠まわしな言い方だと書いた。そうだ。
では「どのような」時に我々は「遠まわしな」言い方をするのだろう。また「必要」と
するだろう。対象が「グレーゾーン」の場合と「相手を気遣って」使うときだろう。


最初に屁理屈だと言った様に私もカンニングは「いけない」ことだと思っている。
だが、これは「私の思想」だ。
この考えは、自らが行った場合に感じる「違和感」が基準になっている。
そして、この「違和感」は、まさに「教え込まれた」ものだ。


誰かに、カンニングはテクニックで、ばれなければ個人の技術で、どうにでも
使って良いのだから、しっかりとカンニングの技術を身につけることが大切だと
教え込まれれば、微塵も疑問に思わないでカンニングをするだろう。躊躇無くだ。
冷静に考えて欲しい。もしも資格試験のように4枝択1の問題を知識が無いから
勘で答えて、点を取ったとしても誰にも責められない。勘や偶然は許されるのに、
技術を使って点を取る事は許されないのだ。それは、ルールで定められているから
「正しくない」と言い切れるのである。


私は小学生の頃、サッカー少年団チームに参加していたことがある。
続かなかった。理由がある。嫌いに成ったからだ。
皆さん御存知のようにサッカーでは相手選手の体を掴んでタックルしたり、
ボールを取ったりしてはいけない。ウエアを掴んでやることも同様だ。
だが、私が初めて試合に出たときに、相手チームの少年が私のウエアを掴んで
ボールを取りに来たのだ。何度も何度も執拗に私が出ようとすると引っ張った。
私は「おい!!服、持っちゃ駄目なんだぞ!!ルール違反だぞ!!」と語気を
荒げて言うと、その少年は黙ったまま「腐った目つき」で私を睨んだのだった。

今でもサッカーは嫌いだ。なぜならワールドカップだろうが、オリンピックだろうが、
世界のトップ選手が、このルールを守って試合をしている姿を見たことが無い。
笑うかもしれないが、他のスポーツでは、これは「有り得ない」ことなのである。
ルールを侵してでも「勝てば良い」、それが、皆が夢中になるサッカーなのである。
これは戦争とロジックが全く同じだ。ご存知だろうか戦争は法律で定められた
ルールがある。戦時国際法という。

そんなものを守っていたんじゃ勝てやしない。そう思われたら、もうお終いなのである。
話を戻そう。
カンニングをした生徒は教師に「とがめられた」だろう。教師は、恐らく生徒のことを
真摯に思って「クラスメートに謝罪」することを「提案」したのであろう。だから、この
「自ら申し出て謝罪した」という、カンニングするような生徒が心を改めて、
みなさん、ごめんなさい。私は悪いことをしました。なんていう有り得ないシーンを
生み出したのであろう。まだ中学1年生。学校生活にも馴れたか馴れないかの7月。
13歳の誕生日も迎えていない、ついこの前まで小学生だった女の子が、「担当教師」に
諭されれば「いや」とは言えないのである。そんなことも「この教師」は分からなかった
のだろうか。ここが一番憤る。女子生徒に「罪悪感」が無かったとは到底思えない。
有ったからこそ、謝罪要求に従ったのだろう。
そして考えたくも無いが、もしもカンニングの事実が無くて、完全な冤罪で謝罪させられ
たとしたら、担当教師は地獄へ落ちるだろう。

そして「自ら」という言葉を発表した学校も、なんと「責任転嫁」の準備が早いのかと、
落胆させられると共に、学校という狭い「社会」の恐ろしさを改めて感じた次第である。
これこそ戦争の勃発と同じ構造なのである。

少し話が逸れますが、最近、私の娘が通う中学校の教師に話をしに行ったことが有ります。
部活動のことで話をしましたが、言いたかった事は部活うんぬんではなく、個人の
扱い、つまり「相手を慮る」ことの重要性を話してきたのです。生徒というくくりではなく、
人は、それぞれです。例えば「能力」も様々、そして「表現」も様々なのです。
運動が得意な子がいたとします。一生懸命に取り組んで結果を残したり、残せなかったり、
それでも「手に取るように」努力をしたのが分かる子供と、淡々と部活に参加し、同じように
結果を残せなかったり、残したりして、3年間を過ごしたとします。さて、淡々とし、
声を荒げることも無く、顔を腫らさず、汗を滝のように流さず、声は枯れず、号泣することもなく
スポーツをした子供は、努力もしなければ、真剣に取り組んでもいなければ、夢中になって
参加していなかったのでしょうか。ないです。

スポーツは不思議です。走っている時だって、玉を追いかけている時だって、
もう、その瞬間は何も考えていません。その1点だけに集中しています。誰だってそうです。
人それぞれ表現の仕方が違います。もしも一生懸命にやったなら涙のひとつも流すだろうと
「個人的なイデオロギー」で生徒を判断、区別をしているとしたら大変な問題です。
人の優劣を「個人的なイデオロギー」で付けている事と同じです。連日書いてきている、
「妄信的に自分は正しいことをしている」と思い込むことと同じなのです。
教師は無意識のうちに個人的なイデオロギーに基づいて、正義の行使をしていることに
無頓着です。普段から採点や評価をしているせいで、自己の価値観で人を判断する習慣が
身に付いてしまっているのです。

話を戻します。
自殺した生徒を「指導」したかったのでしょう。未熟でしたね。「吊るし上げ」という言葉や
状態を知らなかったのでしょうか。ドラマの見すぎじゃないでしょうか。愚かです。
確かに亡くなった子供も「弱い」です。ですが、そこについてが「第一声」では、問題は
解決しないばかりか、また同じ事件が起こるでしょう。戦争と同じなのです。
戦争の「責任」、つまり「誰が悪い」が第一声では、戦争は無くなりません。正義を妄信的に
振りかざす事は暴力だと書いてきました。この「逆らえない状況」を作り出しての謝罪も
暴力なのです。担当教師が、これに気が付いてくれたであろうことを祈るばかりです。

これまで書いてきたことは、決して戦争や自殺事件の究明ではありません。
今日の記事の冒頭に責任を追及することに拘りすぎて、責任を転嫁、もしくは集約させては
今後に役立てる事は出来ないと書きました。それが目的で綴ってまいりました。
現代の社会では思想教育がなされている場所は限られています。宗教施設や、
その団体が運営する私立学校。そして忘れられがちな「義務教育の現場」なのです。
日本の学校では「集団行動」「集団意識」を基本にして運営されています。
つまり「イデオロギー」は、一つでなければ都合が悪い事になります。これはムッソリーニの
「全体主義」、「ファシズム」と同じです。戦前の「学校」となんら変わりありません。

個人の意見は極端に尊重されません。ルールという名の「流れ」に逆らうものは、
矯正させられます。または排除されます。義務教育ならば登校するなとは言えませんから、
「黙殺」されます。ファッショです。正義について、もっと良く考えなければいけません。
妄信的に正しいと思い込み、それを行使する事は、原爆のスイッチを押すのと同じなのです。
第二次世界大戦も少女の飛び降り自殺も、全て「正しい行い」をしたと思って起こった
惨劇です。頼むからという想いです。

この三日間の記事のタイトルは分かりにくいですよね。ざわとです。私は「正義」は、
じつに掴みどころの無い「分かりにくい」存在だと思っているからです。

「正義 それは丸で逃げ水」
これは、遠くに見える正義の到達点を追い求めても、そこには正義の実態は無いのだと
言いたかったのです。正義は人の内側に存在します。

「正義 それは夜空に輝く星」
我々は天文学者でもない限り、星は光であって「天体」を見ているとは思っていません。
光は何万光年も昔に放たれた実体では無いのに、目に見えるものだけを真実として、
その向こうにある存在を忘れています。正義は思想であって「行い」ではないのに、
我々は、正義の在り処について考えるべきなのです。

「正義 それは盾と矛」
正義は、全てのものを打ち砕く、この世の真理の集約だと誰もが思っていたとしたら。
それは原爆程度の愚かな武器にしか成り得ないという事です。
二人以上の人が各々が正義だと主張したら、終わりの無い戦いを生み出すのです。

これまでの記事を良く読んで、改めて戦争と平和について考えていただきたいと
強く強く願います。大変な長文で話も上手にまとめられませんでしたが、これが
私の戦争と正義と平和への想いなのです。


  

Posted by アーバンギア at 19:23Comments(2)あれこれ

2017年07月12日

正義 それは夜空に輝く星

昨日の続きを始めます。


少し前に娘が学校で「さとうきび畑の唄」という戦争ドラマを
鑑賞したことを記事にしました。それについて御意見を頂きました。
比較的、戦争について話をすると耳にする「回答例」だったと
思います。つまり日本人の多くが共通認識として「表」に出せる
戦争に対する「印象」というものを持っていると言っても良いと
思うのです。ですが、これは、よくよく考えると不思議な事です。

なぜならば「実体験」として第二次世界大戦を経験している
人も、まだまだ存命であるけれど「未体験」のものまで、まるで
自分が経験したかのように「事実」を語ることです。


これについては意見が分かれると思います。
こういった例は、いかがでしょうか。
例えば、とある橋の袂に椅子を出して座っていたとしましょう。
そこを通る人々は口々に、あなたに向って「山の向こうには
3mを超える大男が居た」と告げるのです。もう、その人の数は
1000や2000では有りません。そうなると、まさか3mも身長がある
人間など「いるはずがない」と思っていても、否定する要素が
「自分の経験」「自分の知識」だけとなると、肯定せざるを得ない
状況になってくると思います。
間違った「考え」をしているのは自分だと。

これです。
戦地からの帰還者は多くを語りません。これは沢山の「憶測」を
呼ぶことになりました。思い出したくない。この一言に尽きると
思いますが、昨日の記事にも書き記したように「事実」が必ずしも
「正義」に繋がると考えられない場合、自分を「悪」と認めることに
なるからではないでしょうか。これが「戦争」ならば、もう筆舌しがたい、
「極悪人」だと認めなければなりません。ましてや、この世界大戦の
最も憎むべき国は「日本」と「ドイツ」だと言われては、自分が
命がけでしたことを否定し、また戦地で亡くなった仲間たちの魂を
辱める行為に繋がるからです。

これは大変なジレンマです。戦地に赴いた兵隊たちは、基本的には
「善行」で行っています。正義の行使を行うために出向いたのです。
もちろん戦いだけに固執したせいで、戦争は激化し、義を失って
行ったのです。全ての参戦した国が、そうなのです。
さて、この「背景」を、いったい「どれくらい」の現存する日本人が
意識したことがあるでしょうか。

ステルスマーケティング

消費者に宣伝と気付かれないよう宣伝行為をすることなのだが、
昨日の記事にも書いたように「思想教育」は義務教育では、していない
「てい」になっては、いるが、実際には行っている。思想教育とは
気付かれないよう、または「形を変えて」行われているのだ。
すでに終戦を迎えてから70年以上が経過している。プログラムは
定着し、ひとつの「メソッド」となっている御蔭で、
誰も「隠れた思想教育」を子供に施しているとは感じていない。
これは教育者に限らず「一般国民」にも言えることなのだ。

「けんかは止めなさい」

親ならば自分の子供たちが喧嘩をしていれば、そう言うだろう。
幼稚園のお友達や公園で会った知らない子供同士でも同じだろう。
学校でも、いや、それどころか大の大人が職場や公の場所で
争っている様子を見れば、兎にも角にも「止めなさい」から始まる
のではないだろうか。一旦争いが停まったところで、双方の意見を
聞いたり、仲裁のための手立てを一緒に考えるのでは無いだろうか。

そして問題を難しくするのが「学校」や「家庭」という「同志」が集う
場所での「その後」なのである。

家族のことを同志が集うと言うのには若干抵抗を感じるが、実際に
ひとつの「集団」を形成するには「共通のルール」と「思想」が無ければ
継続するのは非常に困難に成る。


したがって、学校や家庭では、確実にリーダーの存在が求められ、
そのリーダーによって集団は導かれて行く様相をなす。
これは大変に重要な事で、社会人が紛争を起こせば、それを解決する
最終的な場所は「裁判所」となり、裁きの基本は「法律」と「前例」
ということになる。直接的なイデオロギーの介入は無いのだ。
もちろん法律を制定するに当っては、イデオロギーが中心になって
いることから、裁き全般について、やはり思想が支配していると言っても
良いのかもしれない。

話を戻そう。
ご存知のように戦争について、戦前と戦後では教育機関では扱いが
180度変わってしまった。これにより帰還兵の皆さんの多くが口を閉ざして
しまったであろうことも加味できる。私の父親は実際に戦地に行って
「戦争」をしてきた人間だった。古い記憶になるが、父は、休みの日に
麒麟麦酒を飲んで、私を膝の上に乗せると上機嫌で仕事の話などを
していた。だが、必ず戦地での「思い出話」になったものだった。
すると父は中国や南方での「市民」の辛い境遇を話して、泣き寝入り
してしまうのだった。父は決して自慢話は、しませんでした。
逃げ惑う他国の兵士や市民、捕虜となった無抵抗の農民の話を
気の毒がって何度も何度も話していました。

PTSD 心的外傷後ストレス障害

父のように戦争に参加して、生きて帰ってきた兵隊は、なにも「日本兵」
だけでは無いんだと、現存する日本国民の何パーセントくらいが意識した
ことがあるだろう。私は、ここが最も重要な部分だと思っている。


アメリカは兵力と金に物を言わせて、多くの被害を出さずに(あくまでも
日本と比較してだ)日本を陥落することに成功した。
なにも日本兵に限らず、多くのアメリカ兵も戦争で命を落としたのだ。
そして生きて帰還したものも多くいる。大勢の日本兵と無抵抗の市民を
殺したのだ。その殺人の対象となったものたちは「悪の権化」だからこそ、
多少のためらいが有っても任務を遂行することが出来たのであろう。
だが事実は、直ぐに明らかになる。

そもそも無抵抗の市民を焼き払うことなど尋常な精神状態では出来ない
所業だ。兵士ならば、向ってくる敵に躊躇していたのでは、こちらの
命が危ないとなる。理解も出来よう。だが、実際の戦争では「躊躇」は、
全てのシーンで命取りになることを兵士ならば知っていたのだ。
あまり書きたい内容では無いが、侵攻先の部落に農民家族がいて、
その家族が抵抗をしなくても男子は、すぐさま射殺、もしくは銃剣で刺し
殺された。女は強姦された後に絞め殺されたり、撃ち殺されたり、
刺し殺された。こどもは開放しても他の兵隊が背中から撃ち殺した。
これは事実である。
統率の取れた部隊では有り得ない行為だが、戦地では記録に残らない
惨劇が、いくつもあったのだ。
だが、その家族は銃を持っているかもしれない、裏に兵士が隠れている
かもしれないという猜疑心と恐怖心から「皆殺し」を選択してしまったのかも
知れない。

7月9日の記事にも書きましたが、飛行機が爆弾を落としていったのと違って、
敵兵に家族を陵辱した後に殺され、それも女も子供も関係なく殺されて、
それを「恨むな」と言われても、到底承服できないのが人間だと思います。
それが「たったの1件」の事件だったとしてもです。ここは重要です。
このような凄惨な事件は例え、それが戦時中だったとしても許される
行為ではないのです。勿論、戦争は人を狂わせます。覚せい剤の使用も
手伝っていました。もう書いていて限界なほどに悲しいです。
なにもかも間違っています。そうです、戦争では誰も責められない極限状態
です。ですが、間違いは間違いです。

話を少し変えます。
最近のインターネット、それもFacebookなどでは、ひとつの事案や事件に
ついて、ドラスティックに「個人」を攻撃する書き込みが頻出しています。
マスコミも面白がって、世論操作をしています。もう誰も信用できないような
時代になってしまった気がします。
誹謗、中傷を「堂々」と書き込む人には共通の意識があります。
それは「正義」です。


「自分(が)正しい」

そうです。自分「は」正しいではなく「が」なのです。

最近では「民進党の蓮方議員」「安倍政権全般」「バニラ・エア問題」などが
顕著な動きです。私は茨城県の女子中学生が車にはねられて死亡した
事件の判決を受けてのネットでの炎上も気になりました。

バニラ・エアでは身体障害者の方が、無理やり飛行機に搭乗しようとして、
航空会社に迷惑をかけたことを、ほぼ全否定する個人攻撃、非難が集中
しました。また茨城での交通事故の判決が「軽い」と、加害者にもっともっと
重い刑を科すようにと個人攻撃、非難が集中しました。
確かに心情的には、その意見も理解できます。ですが私は「問題」が隠れて
いると思っています。前回の東京都議会銀選挙での安倍首相の応援演説での
「暴言問題」も同様です。

従軍慰安婦問題で、そのような史実は無かっただとか、韓国に対する戦後保障は
既に済んでいるのだから、もう70年も前の戦争のことを引っ張り出してきて、
「たかり」のようなことをするなと叫ぶ人は、他の誹謗、非難記事にも投稿している
方が実に多いです。従軍慰安婦については「言葉の定義」の問題では無いのです。
政府も認めているように、戦時中に「こころならずも」娼婦として金を稼いだり、
日本に「貢献」させられた女性が存在した事は間違いが無いのです。
それを「強制」だとか「自由意志」だとか「個人」だとか「国」だとかという論点で
「だけ」話をするのは問題を複雑にするだけで、解決には至らないと思うのです。

もちろん、ここには「大人の事情」が絡んでいます。国益と言えば聞こえが良いです。

私の母は娼婦でした。
昔は売春は合法です。最初から書いているように「イデオロギー」が変われば
正義の定義も変わるのです。正直、打ち明けることを、とまどいましたが、
書きました。大切な人たち以外にも考えて欲しいからです。
蓮方議員の問題は自業自得です。ここは触れません。ですが安倍首相の
演説を妨害した集団を利用して印象操作したマスコミのやり方は汚いです。

茨城の交通事故で亡くなった女子中学生の方のことを考えると怒りも悲しみも
通り過ぎて、放心状態になります。なぜこのような不条理な事が起こるのだろう。
そう思わないではいられません。
ネットでは「114キロもの猛スピードで信号無視の挙句、ひき殺した」
「これは殺人でしょう」という書き込みが圧倒的でした。また「それが懲役9年?!」
という、あまりにも量刑が軽すぎるという書き込みです。「一生出すな」などです。
たしかに殺人的なスピード、信号を無視、故意で無いというだけで、行いは
見まごう事無く「殺人」です。とても犯人の擁護は出来ませんが、それでもこれは
「業務上」なのです。物取りではないのです。そのために法律も定めてあるのです。
禁固の年数については様々な見解が有るでしょうが、一生出てくるな、死ねなどの
書き込みは、間違っていると思います。

あまりにおぞましくて、これも書きたいようなことではないのですが、20年以上前に
女子高生が監禁されて陵辱された挙句、殺されてコンクリート詰めにされて
捨てられた事件が有りました。犯人たちは最長でも17年、軽いものは、わずか4年で、
もうすでに全員出所しています。この事件では全員「死刑」が相当だと思われますが、
犯人が「少年」だったからという理由だけで量刑は信じられないほど軽いものでした。

交通事故で人を殺してしまった場合と、自らの欲望のためだけで人をおもちゃにして
殺してしまった量刑との差が、こんなにもあるのも事実です。私は納得出来ません。
だから法律の改正をするべきなのですが、ここは置いておきます。

少し話がそれましたが、「第一声」が大切だと思うのです。第一声は「心の声」だと
言っても良いと思います。質問に答える形であっても、その答え方に躊躇する
場合が有ると思います。それこそ、胸の内に秘めた思いがあるからだと思うのです。
70年前のことを、いつまでも言っているな!!と喚く人が、「一度の過ち」を許さずに、
一生をもって償えとは、完全なパラドックスです。
「信念を歪められて、負けるわけにはいかない」と言った人に「なんて上から目線だ」と
喚く人が「金は払ったんだから文句を言うな」と上から物を言うのは、間違っていない
のでしょうか。様々な「想い」様々な「考え」や「意見」があるのは当たり前です。
でも相手は「なぜ」そうしたのかという「理由」もあるのです。
言い方が有ると思います。最初に出る言葉が人を表していると思うのです。

大切な家族を殺された。それは同じ国の人たち。同じ村の人たち。血の繋がった、
大切な人たち。1億円貰っても、100年経っても傷なんて癒えやしないです。
ネットの炎上然り、一生刑務所に入っていろ!!お前らなんか死刑だ!!全く同感です。
そして戦争も同様なんです。
どちらに原因と責任があるかは、「遺恨」については問題になりません。やられれば
恨みます。ましてや爆弾一発で死んだのではなく、むごたらしい殺され方をした「事実」が
知れ渡ることになれば、あの国は「糞」だ、未来永劫、呪ってやる、決して許すのでは、
ないと孫子の代、いや永遠に、そう教え込むのではないでしょうか。
それが「思想」なのです。

殺戮に加わった兵士たちの魂は生涯、癒される事は無いと思います。
いくら自分を正当化してもです。正義に満ちて純粋な心を持っているものならば、
尚更のことです。家族を愛し、平和を愛していたからこそ、命がけで戦地に向ったのです。
敵国も同じです。一刻も早く「自由」と「平和」を手に入れたい一身で、戦っていたのです。
相手にも、相手の心にも目を向ける、関心を持つことが真の平和を生むのではないかと
私は思います。撃ち殺した敵国の市民に泣いてすがる子供を見たら、それまでの
正義感も揺るぐのでは無いでしょうか。それが帰還兵の方だと思うのです。
それは日本兵だけでなくアメリカ兵や中国兵も同じです。テロリストとは違うのですから。

何度も言いますが、一部の狂人だけで戦争は行われた訳ではありません。
善意に満ちた純粋な心が正義を行使し、勝利という結果だけに固執した結果、
義を失い、様々な惨劇を生み、悲惨な歴史だけを残してしまったというのが戦争です。
妄信的に「私は良いことをしている」と思うことほど危険な事は有りません。
一人でやっている分には、まだ良いです。ですが、「誰かを」巻き込んで、大勢の中心になって
やっていることは、大変な間違いを犯す原因にも成りかねません。
やはり、私が普段から、くどく言っている「慮る」という事が大切なんだと改めて感じます。


【慮る】おもんぱかる
《五他》
1.
よくよく考える。熟慮する。
2.
はかりごとを立てる。


明日は、自殺した女子中学生の事件について考えてみたいと思います。

※ベトナム戦争は、全くナチスドイツの醜態から学ばなかった最悪の戦争のひとつです。
ですが、アメリカは自分の手で、それを映画にしました。でも虐殺や陵辱の多くを
行った韓国は、その事実に触れようともしません。残念です。


  

Posted by アーバンギア at 16:10Comments(2)あれこれ

2017年07月11日

正義 それは丸で逃げ水

先日の約束どおり「不条理」について話をします。


戦争が、なぜ起きるのか?なぜ中学1年生が飛び降り自殺を
しなければならなかったのか?考えてみたいと思います。
話が飛ぶでしょうから、ブロックに分けて話して、最終的に
まとめたいと思います。

戦争が起きる理由

誰もが戦争について「教育」を受けています。世界中の学校で
「子供たち」に戦争の無益さを教えています。戦争は悲惨で、
大きな傷跡を残し、誰にも利益を与えないと教えています。
どのような「国家」でもです。共産主義の国、社会主義の国、
民主主義の国、イデオロギーが違っても同様な教育です。
ですが、どこの国も大概「軍隊」を持っていて、軍備を敷いています。

ここが不思議です。
イデオロギーとは「思想」です。人間の行動を左右する「根本的な」
考え方を言います。これは、とても重要なことです。人間の「行動」
は、イデオロギーによって「違う」行動を取るということです。


つまり中国人と日本人は、違う行動を取るのです。ロシア人と
日本人も違う行動を取るということです。アメリカ人と日本人は
同じ行動を取るということです。さて、どうでしょう?
必ずしも、そうでは、ないことに気がつきます。なぜなら、もっと
細かく見ていけば、同じ日本人同士でも違う行動を取るからです。
つまり、国家の「思想」は国民の行動を束縛するほど「強固」なもの
では無いからです。そもそも「国家」とは何でしょう?

人は生まれれば、文句なしに、その「いずれかの国」に属します。
大概は生まれた国の「国民」になります。もうその時点でイデオロギーの
選択の余地は無いのです。そもそも生まれたての赤ん坊が、
思想について考えることなど不可能です。ここも恐ろしいことです。
思想は「国家」そのものだと言えます。一見、無秩序な集団では
有りますが、思想という「しばり」で国を象っています。
決して「国境」ではないのです。国境、そもそも領土を持たなくても
思想によって「集団」を作ることが可能です。それどころか、思想によって
国は作られてきたのです。
武力によって統治してきた歴史もありますが、AとBとで「利害関係」が
成り立たないからこそ、衝突が生まれるのです。

「利害関係」

早く言えば「利」、つまり得をすることですね。得ることです。
「害」、それは損です。失うことですね。この「利」と「害」の均衡が取れて
居る状態ならば衝突は起きないはずです。しかし、そもそも利を得るとは
何処かの誰かが「損失」することが前提なのです。つまり、利を得るものが
「たったの一人」であった場合と「二者」が利益を上げ、全く違うものが
損失する構造ならば、数の理論で行けば2:1で、損失するものは
「違う価値観」を持っていなければ、衝突することになります。
これが戦争です。

利害関係というと物質的、経済的なことに着目しがちです。ですが、
前述の通り「イデオロギー」の違いが最終的に戦争という行動に走らせる
のです。摩擦は早い段階から生まれます。ですが直ぐに実力行使には
なりません。それは戦争が大変な「負」を生み出すことを誰もが知っている
からです。では、なぜ戦争になるのでしょう。それが「義」の行使なのです。

【義】 ギ よし
条理。正しい道。道理にかなったこと。人道に従うこと。
利害をすてて条理に従う。公共のために尽くす気持。


イデオロギーによって戦争に発展すると言いました。良く考えてみて下さい。
平和に暮らしていた国民が、突然「物資」欲しさに、「領土」欲しさに、
早く言えば「金」目当てに戦争を引き起こすでしょうか。確かに、その一面は
持っています。ヤルタ会談を教えられれば、国の「リーダー」が、いかに
「欲深」であるかが分かりますし、日本の教育内容では、まるで
戦勝国が「利」を求めて世界大戦を始めたかのように感じます。もう
「それだけ」だったように我々は受け取っているはずです。
この教育だけでは戦争を「教えた」事にはなりません。

普通の人が「人殺し」をする「理由」が無ければ戦争には成り得ないのです。

正義とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正なにもとづく道徳的な正しさ
に関する概念である。
正義の実質的な内容を探究する学問分野は正義論と呼ばれる。広義すなわち
日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般を意味する。


そうです。つまりは「悪」を成敗するために戦争は起きるのです。
事の発端は利害関係に有るのかもしれません。しかし実力行使に至り、
それが国全体にまで支配が及ぶようになるには「共通の意義」が存在
しなければならないのです。それこそが「イデオロギー」なのです。
あいつは悪いやつだから殺してでも成敗しなければとなるのです。

実際の生活では「国の思想」について意識することは「ほぼ」ありません。
特に現代の日本では戦後の処理で、思想教育を義務教育から排除することを
アメリカから強いられました。その影響で、逆に思想的なことを言うものは、
「危ない人間」だと警戒され排除されます。ですが、実際には「しっかりと」
思想を植えつける教育は「幼稚園」の時代から行われています。
戦後70年が経ち、既に国民全体に「思想」は定着しています。その証拠が
中学生の飛び降り自殺です。これについては改めて触れることにします。

話を戻します。「正義」に深く関係のある「道徳」についてです。
先に引用した
正義とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正なにもとづく道徳的な正しさ
に関する概念である。


これは一見「まっとう」で「明瞭」に見えますが、最後にある「概念」という
言葉が問題を難しくしています。


【概念】がいねん
同類のものに対していだく意味内容。
同類のもののそれぞれについての表象から共通部分をぬき出して得た表象。
対象を表す用語について、内容がはっきり決められ、適用範囲も明確な、意味。


つまりイデオロギーが違えば「正義」も変わるという事です。
これは大変な事です。つまり自分が正しいと信じ、正しい行いをすることに
躊躇しないから戦争は起こるのです。


「家族を守るため」に戦地へ赴く。
これだけで日本国民を戦争へ導くには十分な「義」に成り得たのです。
逆に言えば、それ以外の理由があっては国民に開戦の同意を得られなかったと
言っても良いでしょう。
日中戦争の勃発の切っ掛けにもなった「盧溝橋事件」も
中国の捏造だった可能性も残っている。つまり中国からしてみれば日本が
「悪党」だというレッテルを貼らなければ戦争を始めることが出来なかったとも言える。

日本でも中国でもロシアでも、自国の「利」を求めて殺戮をしよう!!と
国家のリーダーが煽ったのでは、その政府は転覆するでしょう。
戦争は「自分だけが正しい」と信じきっているからこそ起きるのです。
それほど「思想」とは危険な存在なのです。ナチスドイツが典型のように
言われていますが、どこの国だって「同じ」だったのです。

先ほど義務教育で思想を植えつけていると言いましたが、もう教師も無意識で
それを行っています。正義に深く関係のある、もうひとつのキーワードに
「道徳」があります。


【道徳】どうとく
社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準(の総体)。
自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと。

これも先ほどの「概念」同様、基準は思想によって変わってしまいます。
少し前のブログ記事で「阿修羅」について触れたことがあります。
阿修羅は自分の妹を辱められた復讐のために帝釈天を執拗に攻めるのです。
阿修羅は、恒に戦っていたようです。妹は、とうに帝釈天の妻となっていたのに、
戦いの手を緩めませんでした。たとえ正義であっても、ひとつのことに固執し続けると
善心を見失い、妄執の悪と成ることを教えています。
妄執、つまり執念です。第二次世界大戦と全く同じです。

国。一部の「策士」が最初に持った「思想」によって引き起こされたもの
だとは思う。しかし、戦争は、間違いなく「みんな」でやったのだ。反対されれば
国で生きて行けない。殺される。陵辱される。それに怯えて「他人の正義」を
「自分の正義」として受け入れていったのだ。それは最終的に集団心理に
成長して行くのだ。自分が「間違っている」と思うこと、認めること、それは
最初に戻って「正しく生きる人間」を全否定することに成るのだ。


つまり、しっかりと道徳教育された国民は善良で「扱いやすい」人間だと成る。
自分が「悪党」「悪い人間」だとは誰しも思いたくは無い。
それが戦争を引き起こし、戦争を長引かせ、終戦後も「他国の責任」へと
転嫁する最もな要因なのである。


明日も続きます。

  

Posted by アーバンギア at 22:43Comments(0)あれこれ

2017年07月10日

正義とは

中学生の女の子が飛び降り自殺しました。


もう憤りすぎて筆が走りません。
先日書いた戦争の「始まり」について、もう少し先に
冷静に書くつもりでしたが、この事件と合わせて、
明日にでも書きます。今日は、もう冷静で居られません。  

Posted by アーバンギア at 21:48Comments(0)あれこれ

2017年07月09日

戦争を考える

先日投稿した戦争がらみの記事について、
コメントを入れていただきましたが...


何せ短いコメントですから、リンクしておいたFBのコメントも
「想い」の半分も書けないでしょうね!な感じではありますが。
ちょっと私が考えている第二次世界大戦の中の「日本」という
ものとは、みなさん違う「想い」を持っていらっしゃるんじゃ
ないかと思い立ち、今日から間を空けてでも、私の持論というか、
戦争についての考察を記事にしてみたいと思います。
益々コメントが入りずらくなりますな(笑)

さて。頂いたコメントに「近親者」が戦争を体験したけれど、
「他国」への恨みは言わなかったとか、戦争を引き起こしたのは
「軍」であって、国民ではない、どちらかというと一般の国民は
「犠牲者」だというような内容でした。その通りです。
ただ私が感じた「違和感」ってのは、それが「第一声」だという
ことなんです。

それが日本人の「刷り込まれた戦争感」なんだと思います。
そして私は「それ」を危惧しています。

私たち戦後生まれの日本人は、学校で日中戦争、太平洋戦争、
第二次世界大戦について、平等に学習させられます。
恐ろしいことに終戦直後と現在では、それらの扱いや解釈に
ついて、差異があるということです。つまりは何かが「間違って」
伝えられたり、未だに事実として表に出ていない「秘密」が存在する
ということになります。

「国民が戦争を始めた訳じゃない」
これが最大の「誤り」だと思います。つまり殺戮や侵略など「平和」に
暮らしていた「豊かな国」の国民が理由も無く戦争などするはずが無い。
だって武器も何も持っていないのに。勝手に陸軍が始めたんだ、
A級戦犯が、勝手に戦争を始めたんだ。アメリカは酷い国だ、
中国も酷い国だ、日本は悪くないのに。ってことを日本人の多くは
「常識」として身につけています。
これでは韓国も中国も批判出来ません。同じです。

日本は「侵略戦争」をした国です。もちろん悪い国です。
「物は言いよう」という言葉が有ります。
これは大変に危険な言葉です。自分の都合で言い方を換えれば、
なんでも「正当化」することが出来ます。最近、子供たちに、物事は
必ず「一対」で存在すると教えました。実は、ここにこそ戦争が始まる
「理由」が潜んでいます。それについては後日触れることにします。

まず先ほど「他国」と書きましたが、主にアメリカと中国のことを
言っているんだと思いますが、ここに、その他国と日本の感覚の
「ずれ」が有るんだと思います。日本は物凄い「空襲」を受けました。
でも実際にアメリカ軍が日本に上陸して、軍人を殺したり、一般の
国民を殺したりした本土決戦は沖縄だけでした。
つまり日本人は戦争をしていましたが、眼前の兵隊に侵攻されなかった
のです。それと違いインドネシア、フィリピン、ミャンマー、マレーシア、
シンガポールといった国は、日本軍の軍人に直接侵攻されたのです。
市民も大勢亡くなりました。中国もです。

これは大きな違いです。やはり「人に」殺されたのと「爆弾」に
殺されたのでは恨む先が変わってきます。原爆で家族を亡くした方は
「アメリカ」という国と「トルーマン」を恨むでしょう。もちろん爆弾で
大勢の人間が死に、殆どの財産は焼き尽くされ、命が助かっても、
その後の生活は地獄のような厳しさだった訳です。恨みもします。
ですが、やってくるのは「飛行機」であって、銃を構えた「殺意に満ちた」
人間では無かったのです。

日本は戦争の「責任」を誰かに押し付けました。実際の戦争は「民意」も
働いていました。戦争を「やれば良い」と考えていた国民も非常に多く
存在したのです。もちろん戦争に勝てると思っていたからです。
無知だったと言えます。しかしアメリカと戦うなどとは、想定外だったと
思います。「勝てっこない」、それが国民の大多数の意見だったと思います。
しかし、アメリカが参戦すると、もう日本は「引っ込める」ことは出来ない
状況になってしまったのでしょう。未熟な国家です。

敗戦処理を行ったアメリカにとっても戦争を「一部の人間」のせいにする
ことは有利でした。まとめやすいですし、その後の日本をコントロールする
為には大変に有効な作戦です。だから義務教育では戦争をやっていたのは、
「軍」と「政府」だと教えました。戦争をすると悲惨で「損」だから、やらない
方が良いと繰り返し教えられれば、平和ボケした国民は「そこだけ」を
強調し、平和を維持したいから戦争は反対だと言うでしょう。当たり前です。

そうなると、もうアメリカの「思う壺」です。日本は軍を持たない。戦争は、
しない。つまり簡単に占領できる。今後も簡単に武力でコントロールできる
となる訳です。これは、これで良い様に私は思っています。

北朝鮮のように武力で威嚇してきたり、韓国のように、いつまでも戦争責任
について保障を求めてきたり、中国のように領土を侵略したり、ロシアのように
占領を解かないで国土を返さない「国」に対して、日本人は「汚い」「ずるい」と
考え、また強く非難し発言します。それは、やはり「国」が戦争をやったからだと
考え、「人」がやったという意識が希薄だからだと思います。
そして「戦争が汚い」ものだと認識しているからだと思うのです。
もう「喧嘩」は止めよう!!と言っているのでしょう。確かに、その通りなのです。

ですが、「他国」の国民は、そうは思っていません。
人と人とが殺しあったのです。軍人だけでなく平民もです。沖縄の人たちが、
アメリカと日本に対して「特別な」感情を持っているのと同じです。
先ほど言ったインドネシア、フィリピン、ミャンマー、マレーシア、シンガポールは
「他国」の植民地でした。利用されて、搾取されていました。
独立したいと強く願っていました。中国も満州を造ることに積極的でした。
ですが。
ロシアから満州を取り戻し、安定すると中国は日本を排除し、独占しようと
したのでした。つまり利用したのです。汚いです。ですが、日本だって、
「欲」が有ったのです。

他のアジア諸国も、きつくて酷い植民地支配に辟易としていたので、それよりは
「まし」な日本の対応に「侵略」を歓迎したとされています。でもこれも微妙だ。
当然、他の国からの植民地支配を解こうというのだから「利益」が無ければ、
多額の金と血を流すはずが無い。きれいごとしか伝わってこない。
だから私は言うのだ。戦争は日本人が住んでいる日本という国が行ったのだと。
反対するものもいた。多くの国民も政治家も戦争に反対した。
でも侵略も行われた、戦争にもなった。

戦争は醜くて悲惨だ。誰でも知っている。だが、それは「自業自得」なのである。
だから日ごろから私は言っている「多数決」は危険だし、民主政治「国民主権」も
低脳が大多数なら、国が沈没すると。そして日本人は「レトリック」と「プロパガンダ」
に騙されやすい「純朴」な人間性を持っているということも忘れてはならないのだ。
自分(が)「正しい」ことをしている。
つまり、そう思い込むことが戦争を引き起こしているのだ。


大変長い話になります。これについては次回掘り下げることにしたいと思います。





※今日は娘たちに「酢めし」の作り方を教えました。
余った飯で、河童巻きを作りましたが、恵方巻き並の太さは御愛嬌です。
全部三人でやりました。末娘は宿題で参加出来ず(笑)
こんな平和な日に空襲は突然やってきたのでしょうね。  

Posted by アーバンギア at 17:06Comments(2)あれこれ

2017年07月08日

清水銀座の活性化

七夕祭りに行ってきました。


もう暫くは行かないと思います。
凄い人出でした。あんなの何十年ぶりかに見ました。
ほぼ、シャッター商店街なのに。動けないほどでした。
問題ですね。
飾りが、殆ど無い。飾りを見ている人は「ほぼ」いない。
祭りと言っても、みんな屋台の食い物目当て。
主催側も食わせて金儲けだけに走っている。
風物詩としての魅力が激減。あんだけ売って、食わせて
るのに、ゴミ箱が、どこにもない。座るところも無い。
交通整理も今ひとつ。

電車にも乗れない。

明日は立ち上がれないでしょうね。でも早朝から家内は
バルーンバレー大会に行くそうです。
ダメンズのお二人も「お出かけ」だそうです。
となると送迎の運転手は「私」。

帰ったら勉強します。


  

Posted by アーバンギア at 23:59Comments(2)あれこれ