2016年01月31日

感じの悪い店

感じの悪い店ってありますよね?

店っていうか、まぁ「人」ですよね。店員だ。
私は職業柄「店舗」について深く考える機会が多い。
事務所以外の「店」「病院」など「対人」が求められる
「空間」について、あれこれと考える訳だが。

建築デザイナーの視点で考える空間ってのがある。
クライアントなんて「関係無い」って思って考える。
で、その勝手に考えた空間が「素晴らしい」となって、
お金を払ってもらえる。
まぁ建築家の場合は、希望、要望を「一通り」伺うが、
基本的には「こちらの才能」を買ってもらっている訳だ。

さて、飲食店などの店舗の場合、この「感じ悪い店」
ってのが相当に多く出くわしやしないだろうか。
感じ悪く感じる度合いに大きく影響するのが「落差」
ではないだろうか。
「激安」をうたっている飲食店。
「上品」な外観を装った飲食店。

この2パターンで、出てきた店員が「無愛想」だった場合、
本当に腹が立つ。
安くて美味そうな「看板」に釣られて入った店で、
出てきた店員は少しも笑わず。気も使わず。
入ったと単に何だか「こっちが」悪いことでもしたみたいな
気分になる店があります。

上品な外観の店でも、同様に「御高く」留まりすぎて、
微塵も笑わず。どころか、睨みつける。
「ご飯のおかわり自由」なんてメニューに書いておいて、
店内に出てもこない。おかわりをしようにも「声も」
掛けられない。頼めば「頼んじゃ悪かったのか」と、
心底「入るんじゃなかった」と思わせる態度。

それらは激安なら激安なほど、品が良ければ品が良いほど、
「くそ頭にくる」んでございます。
そんな連中に出会うたび「必ず」思うことがあります。
「嫌なら辞めればいいじゃねーか?!」です。
なんでそこまで機嫌悪くしてまで仕事を続ける?!
なんでそんな顔して無理に「ランチ」やる?!
なんでそんなにテンション上がらないのに店やってる?!
なんでございます。

私は店舗のデザインの依頼を受けたときに、依頼者の
様子を相当に観察している。「相応しい」デザインというか、
「面構え」ってのがある。つまり、仕事であるから、
やることはやるのだが、「分不相応」な「いでたち」では
商売の妨げになったりするのである。

ただ毎度思うのだが、開業しようとする人たちの初心は、
少々の差こそあれ「夢と希望」に満ち溢れていたのでは
ないだろうか。自分の未来を思い描くとき、やはり万人
「笑顔」になりやしないだろうか。
その笑顔は、即ち「客」の笑顔でもあるのだ。
もし笑えなくなったのなら、早々と商売をたたむべきだ。
なぜなら、仏頂面で帰ってゆく客の「表情」と「心情」は、
そのまま店主の表情と心情なのである。

最初の気持ち。
それとは違っているのだから、続けている意味など無い。
幸せなど、そんな所には存在しないのである。


  

Posted by アーバンギア at 15:19Comments(0)あれこれ

2016年01月30日

息子と渋谷

今日は東京都渋谷っていうか南青山で
設計のプレゼンテーションをしました。

っていうか現時点で、まだ品川なんですけどね。
一応成功だったと思います。
ただ、実際いくらかかるのか?ってのが問題な訳で。
そこからが、ホントのスタートなんですけどね。
まあ基本設計は出来たので見積もりを徴収すると。
で、壊してみて本当の実施図面が完成すると。

今日は次男が一緒だったんです。
30年ぶりに竹下通りを歩いたり、渋谷から表参道を
ずっと歩いて原宿まで行ったり、青山の裏通りを
散策したり、センター街を歩いたり。
スペイン坂なんて18の時に歩いたきりですよ。

痛い。
もうとにかく腰から下がイテー!!!

良い思い出ができた。


  

Posted by アーバンギア at 22:12Comments(0)子育て建築

2016年01月29日

しらけ世代

私は1963年生まれ。 俗に言う「しらけ世代」だそうな。

ただ、この「しらけ世代」、大変に幅の広い年代を
総称して言っているようだ。
簡単に言ってしまえば、「団塊の世代」以降で60年代生まれ、
よく言った「新人類」という世代までを言うらしい。

団塊の世代は昭和の22年から24年(説によっては26年)
くらいまでの「ベビーブーム」という間に生まれた
人たちのことを言う。
驚くことに24年の法改正まで堕胎は刑法で禁止されていた。
従って敗戦後、想像に易い理由で子供は沢山生まれることになる。
それは恐ろしい数の子供だ。
非常に「雑に」扱われた世代である。

政府の方針も滅茶苦茶だった。
「金の卵」なる言葉も誕生した。この団塊の世代の大学
進学率は、せいぜい20%程度だったらしい。
のちに経済的な理由も手伝って出生率は激減したと言われているが、
私は決定的な理由は違うところにあると思っている。
団塊の世代の「雑さ」加減に疑問を持った人が多く
いたのではないかと想像している。

団塊の世代の親の多くは大正世代だろう。
1950年代の前中期に生まれた世代は学生運動に参加したという
人は相当に少なくなっているだろう。また共通一次試験を
経験していないという人たちでもある。
「争う」必要が無い世代だったとも言って良い。
もちろん広義の意味で争う必要が無かったと言っているのだが。

自由で「ノンポリ」だなんて言われた世代だ。
ベビーブームの煽りで「一人っ子」なんて人も多かったはずだ。
一人っ子は家庭内で争う必要が無い。兄弟がいない分、
「勝ち取る」という習性が希薄だ。またよく言われる「短気」で
「わがまま」な一面を持っている子供が多いように感ずる。
親が相当に厳しく躾けても、やはり「摩擦」の少なさでは
団塊の世代に比べれば、頭抜けている。
したがってコミュニケーション能力が低い人が多い。

基本的に世論が「まぁいいじゃん」な具合だったのだから、
そこへ持ってきて、わざわざ波風を立てながら生きる人ってのは
圧倒的なマイノリティだった訳だ。
だが、この「まぁいいじゃん」世代は現代になって問題を
抱えている人が少なくない。

この数年で定年退職を迎えた、迎える人たちだ。
60歳前後の人たちは会社内、家庭内で、どのような生き方を
してきたのだろうか。十把ひとからげでは言えないのは
承知なのだが、私が社会に出たての頃の「先輩」たちは、
テキトー感に溢れていた。
バブルも「ど真ん中」で経験している人たちだ。
私はバブルの最盛期の時には小僧だったが、30歳くらいの
「金」もある「ポジション」もある人たちが世間を席巻していた。
まぁ相当に遊んだのだろう。

この世代の問題は「なんとかなった」っていう幻影に
しがみついたままだっていう事だ。子育てや夫婦関係においても、
この「なんとかなるだろ?」みたいな思考が蔓延していた。
不倫も大流行させた年代だ。「積木くずし」も流行った。
家庭崩壊なんてものも流行らせた年代だ。
これらを見るにつけ、やはり「なんとかなるっしょ」、
「テキトー」な感覚で生きてきた人が多かったと感じさせる。

さて、その遊びの達人たちが「仕事」を失う。
バブル景気を作ってきた人たちだ。とにかく働いて、
とにかく遊んだに違いない。仕事に没頭するあまり、
夜遊びに没頭するあまり、家庭を顧みず、そして真の友人も
作らず生きてきた人たちが、仕事と会社を失って、
どこへ向かってゆくのだろう。

自分を十分に見つめる時間が手に入るのだ。
これまでの人生を振り返って、焦燥感に支配され、我が身を
苛むことになりはしないだろうか。
この考察は大切だ。
私自身の身の振り方というより、子供たちが巣立ってゆくときに
送ってあげたい言葉を模索しているからだ。

しらけ世代は、決して、しらけてなんかいられないのである。
しらけ世代は浦島太郎状態だ。
この複雑化した現代社会のサイバースペースに居場所は、あるだろうか。
私は、今さら社会に「迎合」させる必要なんてないと考えている。
それよりも、これまで勝ち得なかった「コミュニケーション能力」と
「真摯な情熱」こそが、余生を豊かにさせる最も大切なツールだと
思えてならないのだ。







手始めに、このくらいのアホウとコミュニケーションの
練習をすると良いです。  

Posted by アーバンギア at 14:47Comments(2)あれこれ

2016年01月28日

割れ鍋に綴じ蓋

似たもの夫婦って言葉がある。

ただ、この年になって思うのだが、似たもの夫婦ってのは
無いんじゃないかって。似たもの夫婦ってのは容姿のこと
ではなくて、もちろん「癖」というか、「性分」みたいな
もののことを言うのだろうが。
これは、やはり「長年」一緒に暮らしてきて染み付いた
ルーティンのようなものだろう。

決まりきったという意味のルーティンではなくて、一連の
「動作」という、まぁ言ってみればコンピューターの
プログラムみたいなものだ。

私は夫婦というのは「割れ鍋に綴じ蓋」が一番端的に
存在というか、意義を表していると思う。

夫婦というのは、いずれも「自分が優れている」という
自負を持っていやしないだろうか。満遍なく常時という
訳ではなくても、瞬間に「それは違う」とか「非難」をする
ことが日常的に有りはしないだろうか。
私は毎日のように思う。
相当に家内を「見下して」いるということになるのかもしれない。

家内は家内で、日常的に私の行動や思想を「影で」非難して
いると思う。っていうか、そうだ。
女ってやつは、どうしてこうも四六時中文句を
言っていられるのかと、感心するやら呆れるやらだ。
私は心の中で「浅はかな女だ」と家内を蔑むのである。

冷静に考えてみると、この瞬間というのは「お互いが」
蔑みあっているのである。実に滑稽だ。
この状態を「夫婦喧嘩は犬も食わない」と言うのである。
上手いこと言ったもんだ。
まぁ我が家の場合、夫婦喧嘩にまで発展する事は極々「稀」だ。
私が出来た人間だからに他ならないのであるが。
夫婦ってのは、男女の別なく、「口が達者」な伴侶と、
「愚鈍」な伴侶になっている場合が圧倒的だ。

愚鈍とは、また言い過ぎな気もしないではないが。
この愚鈍な立場の伴侶は決して「本物」の役立たずって
ことではなく、家庭を一歩出れば「利発」賢明な社会人って
場合が殆どですよね。
人の関係ってのは完全なフラットな状態ってことは稀ですよね。
小さな小さな傾きであっても、夫婦の場合は、それが拡大解釈
されているんじゃないでしょうか。
「役」ですよ。
他人と比べるんじゃなくて、夫婦の、どちらかの方が「適している」
ってのを感覚で見極めているんでしょうね。

割れ鍋とは、まんま「割れた鍋」のことです。綴じ蓋とは
「綴じる」つまり修理した「不細工な蓋」だって意味です。
壊れた鍋にも「しっかりと合う蓋」が、あるものだという事です。
どちらもピカピカの新品ではないところが「みそ」です。
夫婦っていうより人間なんて多かれ少なかれ「欠点」を持っています。
どんなに利発で聡明だと威張ったところで凡人、嫌「偉人」だって
家庭に入ってしまえば「でこぼこ夫婦」の一役を買っているのです。

私は家内を腹の底から愛しています。
こうだから、こうだとかって理屈は無いです。
どうにも愛している状態を「なぜ」という視点から説明しようと
しても上手に出来ません。
家内は誰の目から見ても「聡明」で「容姿端麗」な類稀な
女性だと映るでしょう。私はというと、まぁ「昭和の雲助」とでも
言いましょうか、おおよそインテリ、文化人には見えないと
自分でも納得しています。
傍若無人の代名詞とでも言いましょうか。

人の目には、どう映っているか。
実際は割れ鍋に綴じ蓋。他に例えが見つからないくらいです。
割れ鍋だろうが綴じ蓋だろうが、どちらか「一個」では
本当の役立たずでございます。
つまりは私の家内への愛は「自分への愛」でもある訳でございます。
私は自分の事は大して愛しておりません。
家内への愛に比べれば自分への思いやりなんて、たかが知れています。
ただ。家内には感謝しています。
人を思いやる機会を「この人生」で与えてくれたことに。

その感謝の気持ちを上手に伝えられなくて、もどかしい毎日を
送っている次第であります。


  

Posted by アーバンギア at 12:52Comments(2)あれこれ

2016年01月26日

理解不能

どうしても分からないことがある。

人間の心だ。

しゃべったり、行動したり。
こちらに向かって「意見を言う」「要求する」。
いずれも受け入れがたい内容だったとき。
「なぜ」そのような事が我が身に降りかかるのかと。
困惑する。

誰でも、そうではないか?
では、なぜ自分が嫌な思いをするのを嫌うのに、
人には慮ることが出来ないのか?

不思議だ。どのように考えても、しっくりとこない。

我々には、しっぽも、大した毛も生えていない。
獣のようには見えない。だが丸で獣と同じだ。
自分の主張ばかり通そうとする人を見ると気味が悪い。
裸で不恰好な獣を見ているようだからだ。

人間は孤独であるべきなのだろうか。
群れなければ摩擦は起きない。
即ち平静は保たれる。
補い助け合うための「社会」の存在は、既に役目を
終えてしまったのだろうか。
どうにも理解できないのである。  

Posted by アーバンギア at 17:55Comments(0)あれこれ子育て

2016年01月24日

木を煮る

非常に寒い一日でしたね。
ゆっくり模型作りでもしようかと思っていたのですが。
まぁ言っても日曜日、ちゃんとした休日ですしね。
どうせ明日もやらなきゃならないんだしってことで、
まずは「あれ」をやらねばと。

木を「煮る」んです。
ずっとやろうやろう、やらねばやらねばと思っていた
のですが。この寒空の下、外で何時間も火の世話を
しているのもなぁと。
そもそもが忙しくて、全く時間が取れなくてですね。
今日も、とりあえず火が安定したら模型を作っていよう
とか、考えていたんですけどね。

風が強くてですよ。もう凄い風で、簡単に着火出来ましたね。
家の前に3年も置いてあった「こっぱ」も綺麗に燃やせたし。
正月のお飾りも燃やせたし。キャンドルイベントに
使った竹も綺麗に無くなったし。
竹ってのは凄いですよ。3年で完全に乾燥していても
火にくべると、まだまだジュブジュブと泡を吹き出しますからね。
良く燃えます。

火に掛けておいたのは3時間くらいでしょうか。
一斗缶に入れた「木」は火を掛けてから7時間ほどすると、
真っ黒になっていました。あくも抜けたのでしょう。
「木」、熱帯魚の水槽のレイアウトに使うんです。
買ってきた木でも、そのまま使うと菌が入ったりします。
今日煮たのは拾った「何か」の木とアイアンウッドですね。
アイアンウッドは重いのですが、水の量に対して比重が
小さいと浮いてしまいます。煮ることで沈下させることが
出来るんですよ。

先ほど缶から取り出したのですが驚きましたね!!
まだ一斗缶の水は、お湯でしたよ。
残った灰に、そのお湯を掛けると炭が赤々となりました。
う~ん焚き火の不始末は怖いですよね~。
私は、ちゃんと釜戸を作ってやってますよ!

今日は昼間は日が出たりして、防寒していれば寒くて
絶えられないということは、ありませんでした。
が。
足の先が死ぬほど痛かったです。せっかく火があるんだからと、
残り物の、ソーセージなんかを持ち出して焼いて食いました。
ついでに飲み残してあった赤ワインなんかを飲んだら、
足りなくなったのでビールも飲んで、すると娘たちが
やってきたりして、本当に幸せな休日を過ごすことが出来ました。

雪のおかげで、今日は誰も山から出ませんでした。
ん?出られませんでしたか。
諦めてしまうと人生は楽になります。
まぁ今日は神様からの特別なプレゼントです。
英気を養って、また明日から頑張ります!


  

Posted by アーバンギア at 18:20Comments(0)あれこれ

2016年01月23日

思いを馳せる

建築模型を作っている。

白模型と言われる大変にシンプルで、その計画の
根幹を、実に清廉な状態で知らしめることの出来る
我々建築家にとっては、マストアイテムがある。

先ほどから雪が降ってきた。
最初は細雪だった。細く細かな雪が落ちてきた。
今は綿のような雪が、まるでスローモーションの様に、
ゆっくりゆっくり落ちている。
とても静かな時間が流れているように感じる。

「今頃、琵琶湖も雪なんだろうか」
そう、遠く離れた建設地に思いを馳せる。

雪は白い。
明日の朝には何もかも白く覆い尽くすだろう。
雪は厳しい。だが雪景色には優しさを感じる。
様々な憎悪さえも、まるで何も無いかのように静かな
景色に変えてしまう。
神が我々に何かを諭しているようにも感ずる。

いつだったか、白銀に、いつまでも続く滴る鮮血の
痕を見つけたことがある。
恐らく狐が野うさぎを仕留めたのであろう。
私は、それを見つけたときに、とても哲学的な
気持ちに支配された。
防寒着を着ていたが顔は刺すように痛かった。

何事も無いかのように見せるのは、平坦で静粛な様子が、
どれほど我々には尊いのかを教えるため。
そして、その基盤の上に本能のままに、そして「生きる」
ことだけを目的に生活しているものがいることを教えるため。

白模型は間取りを確認するためにも光の回り方を
確認するためにも使われる。
だが、その最もな存在理由は「姿」を見るためであろう。
白模型が建っている様子。
実際の建築には様々な思いを内包した人と人の
「暮らし」がある。そして、建築に関わる人々の
「思惑」と「暮らし」がある。

それらを「一瞬だけ」忘れ去って「佇まい」だけを
見るものに感じさせることができる存在。プレゼンス。

子供たちは歓声をあげ、降りしきる雪を仰ぎ見る。
目をつぶり、雪を全身で感じている。
同じ水分でも雨を全身で感じたいとは滅多には、ならない。
雪。
設計図では感じられない「プレゼンス」。
それが白模型の存在価値だ。

素人が永遠に図面や仕様書を説明されても、うんざりと
するだけだ。

削りだした、スチレンボードの「かす」が、まるで
静かに舞い降りる雪のようだ。
早々と雪見酒と洒落込んだ午後、遠く離れた近江の山里に
ワイングラスとカッターナイフ片手に思いを馳せるのであった。


  

Posted by アーバンギア at 16:09Comments(0)あれこれ子育て建築

2016年01月22日

建築模型

しぶしぶ建築模型を作っています。

何年振りでしょうか。住宅の「白模型」を作っています。
正確には、まだ作るという段階ではありません。
模型用に図面を作ったところです。
あと材料なんかを買いに行ったところです。

模型を作るのには、結構お金も掛かります。
専門的な材料なので意外に掛かったりします。
まぁなんと言っても「人件費」が最も高額なんですけど。
やはり時間が掛かりますからね。
模型を専門でやっている工房も結構あります。
建築の勉強をした人です。基本的には。
構造を知らなかったり、図面を読めない人では模型は
作れませんからね。

私のような零細設計事務所では自分で模型を作っている
場合が殆どでしょうね。アトリエ系の設計事務所で
所員が大勢いるところでは、やはり同じく自分のところで
作っている場合が殆ど100パーセントです。
これには理由があります。

模型ってのは大きく分けて作る理由は
「ふたつ」だと思います。
ひとつは「プレゼンテーション」のため。もうひとつは
「スタディ」のためです。
設計図を書いてみても、それでも実際に視覚で確認すると
駄目なところが見つかります。
また「良い」部分も確認できて、ほっとします。
自分の狙いが間違っていないか確認するにはCGでは
得られない「絶対的」な安心感が模型にはあります。

ただ、その再現性についてはCGには劣ります。
そこが大切なんだと思います。
CGは中途半端な作りでは「こんなはずじゃなかった」と
なる場合の方が圧倒的に多いです。
そこへ行くと「白模型」なんて、安っぽいの「極み」
ですから、想像するしか手が無いという。
実際の建物の方が白模型より立派に見えるのは「当たり前」の
話ですからね。
諸々「これから」検討してゆく「素材」「下地」としては
十分で、且つ「最良」の検討ツールなんでございます。

では、なんで、そんなに「ありがたい」模型を作るのが
「しぶしぶ」かっていうと。
第一に「不慣れ」ってことでしょうね。
だって「めんどくせー」んですよ。凄く!!!
毎日「それが」仕事で作っている人は体が勝手に
動くんでしょうけど、年に2回も作れば多い方だなんて
場合は、サラサラスラスラと行く訳ないんですから。
これ、CGにも言えるんです。

建築設計やってる人ってのは、もう全くPC駄目って人も
いますからね。完璧「線」だけで生きてる。
っていうか、パースも描けなくて水平、垂直面だけで
仕事してる人、結構いますから。

で。
模型の面倒なのは、「切ったり」「貼ったり」しなきゃ
ならないってことです。のりがベタベタしちゃうと大変だし。
そもそも「真っ直ぐ」切るのが大変なんですよ。凄く。
厚いスチレンボードなんかだと、もう絶対に表と裏が斜めに
なっちゃって、ぴったり張り付かない。うう...
窓の穴を開けるのも小さいと、イライラしますね。
私は結構、器用な方なんですが、縮尺が1/50くらいだと
窓に限らず、あっちこっち1ミリ以下の部品が出ちゃうんです。

外観だけなら1/50でも良いんですけどね。
まぁ中まで再現しようと思ったら1/30くらいは欲しいですよね。
でも「運搬」のことを考えて、今回は1/50にしたんです。
また始末が悪いことに「軒裏」を垂木表しで設計しちゃって、
そこが「旨味」なんで、再現しようと決めましてね。
垂木、45×60ですよ。 0.9×1.2ミリ。死ぬ。
工作用の製材には無いのでカットして作るんですが。
1×1.5ミリの部材を作ります。1ミリ厚の材料はあるんですけどね。
仕方が無いから3ミリ幅のものを半分にカットするんです。

紙じゃなくて「木」ですよ?!死ぬ。
垂木も200本近くありますからね。何日掛かりますかね。
私が最も気が重い理由は「他」にあります。
実は今まで模型でプレゼンして実施になった事が、
ただの「一度」も無いんですよ。まぁ建築家人生で数回しか
作ったこと無いんですけどね。ジンクスなんで。
そもそも私は建築学部なるものも卒業していませんし。
一番最初から、いくつかは完全な「自己流」で作ってましたしね。
まぁ模型作りに「当たり前」なんて無いですけどね。
設計と同じです。

まぁでもやろうかな。
って、やらざるを得ないんですけどね。
今回はCGじゃ無理なんです。傾斜地に建っていて、スキップフロアも
設けてあるし、クライアントどころか、私自身も空気感を
掴めていないという。
今回は既に設計契約済みのプレゼンだしね。没は「予算オーバー」
の場合だけに限られているしね。
まぁこれが一番怖いっていうか「魔物」なんだけどね。

小さな頃から模型作りは大好きだったけど、必ず出来に
納得行かなくて、終わった後の「空しさ」だけが記憶に残ってる。
でも毎度、想像するのは施主のキラキラした「眼差し」だ。
私が作った不出来な模型を、小さな子供のように、しげしげと
見つめる眼差し。
背中を押すのは、その眼差しだけだ。



画像の左に写っているのは「カーソル」と言います。
直定規に取り付けるアダプターなんですが、こんなものが
800円以上もします。需要が無いものは高いんですよね。
建築設計なんて最もスケールメリットと縁が無い職業ですね。  

Posted by アーバンギア at 19:19Comments(0)建築

2016年01月21日

相性

「食べ合わせ」ってありますよね。

食べ合わせが「良い」って使うより「悪い」って
使うことが多くありませんか?
そうです。食べ合わせは「悪い」ものを言うときに
使う言葉です。従って、食べ合わせが「良い」という
概念は存在しません。

有名なところで「鰻と梅干」。
死ぬって言われていました。私は小さな頃それを
聞いて、本当に怯えました。
なぜなら鰻の蒲焼が大好物だったからです。
ところが梅干は大嫌いで。なぜか梅干の「おむすび」を
「森繁」で買ってもらうのですが、中に入っている
梅干を取り出して、おむすびを「わざわざ」半分にして
食べるのが好きでした。白いご飯に付いた赤い食紅の
色を「しっかり」確認して食べるのが好きでした。

そんな訳で、鰻を食べるときに万万が一、梅干を
口に「付ける」様なことが絶対にあってはならないと
真剣に肝に銘じた訳でございます。
もう梅干は「青酸カリ」かなんかと同列の扱いでした。
後に大人になってから、まぁ基本的には「迷信」だった
とTVか、なんかで知って、なんだったら、わざと
鰻と梅干を一緒に食ってやろうか!くらいの感情が
沸き起こったのは言うまでもありません。

さて、では相性が良いものの他の「言い回し」は
ありませんかね。まぁ、もう普通に「相性がよい」で
十分ですけどね。「親和性」って便利な言葉がありますよね。
親和性は、物理や化学的な記述をする場合に多く
登場しませんかね。基本そこらから出てきた言葉でしょう。
で、「物事」を組み合わせたときに結びつき易い性質を
表現したりするときにも用いますね。

長々書きましたが、大したことを書きたかった訳では
無くてですね。私、「ファンヒーターの運転音」と
「パット・メセニーのOne Quiet Night」ってアルバム、
それもM1の「タイトルナンバー」の組み合わせが
「最高に」大好きなんですよ。

実は、このアルバム、他に「雨音」「降雪音」に
物凄く「合う」んです。
ザーッとかシーッって音です。なぜか「風」の音には
合わないと感じます。
真夏でも、このアルバムかけるとファンヒーター着けたくなる
くらいですよ。
あっ!!でも真夏に聴いてて風が木立を通り抜けていったのが
分かると、瞬間に自然と一体になりますね。

音楽を聴くのに「雑音」は邪魔になるはずなんですが。
この親和性は体感して頂かないと分かってもらえないでしょうね。
ちょっとだけニュアンスが似ている「相性」があります。
私は、もう20年くらい自宅で仕事をしています。
ずっと「子育て」もしてきました。仕事に集中している時に、
赤ん坊に泣かれると、参るのですが。
それでも「ミルク」をくれたり、オムツを替えたりして、
立って歩くようになり、気分転換に公園なんかに
連れて行くということを何年か続けて、さっぱり子供に
手が掛からなくなると。

仕事でパソコンのキーボードを叩いていると、外から
子供たちの笑い声が聞こえてきたりします。
私のキーボードは、ドイツ製のメカニカルキーなんです。
とても大きな音で昔ながらに「カチャカチャ」と鳴り続けます。
そこに子供たちの大きな笑い声が遠くから聞こえてくると、
一瞬だけ手を止めて「聞き耳」をすませます。
ちょっとだけニヤリとして、またカチャカチャとキーボードを
打ち始めます。

食べ合わせの反対に「親和性」は「良い結びつき」の
場合に使われます。
メカニカルキーの大きなカチャカチャ音と子供たちの笑い声に
親和性を感じられるのは、兎にも角にも私が「時間」を
掛けて脳に学習させてきた「賜物」でしょう。

刺身を食うときに山葵が無かったら話にならないように、
私が仕事に没頭するときには我が子の「笑い声」が
絶対に必要なのです。
最近、仕事に集中できないのは子供達の笑い声が聴けない
からなのかもしれません。

遠くを見ることが多くなりました。




  

Posted by アーバンギア at 17:38Comments(0)あれこれ

2016年01月20日

志望校を決める

様々な思惑が錯綜しているでしょうね。

前期の受験校だけは、やっと絞り込みました。

東工大だけは無かったようです。
せがれの発達の遅さに本気で呆れた一日でした。
それにしても受験校を絞るのって大変ですね。
昔は、そんなんじゃ無かった気がします...  

Posted by アーバンギア at 20:51Comments(0)子育て

2016年01月19日

スマホを買い換えるわずらわしさ

はんぱねーです。

スマホを新しくすると、その設定で
完璧に「折れます」。

パスワードってなんだ?!とかって思います。

メールアドレス打ち間違えて登録してあったりして、
変更のパスワードが全然届かないとか。

もう既に新品を、ぶん殴りたいです。  

Posted by アーバンギア at 21:46Comments(0)あれこれ

2016年01月18日

登校拒否

長女が学校へ行きません。

中学一年生の娘が先週から学校へ行くのを
嫌がって休んでいます。
友達とのトラブルが主な原因です。
最近では私に胸の内を明かしてくれなくなりました。
家内に話したようなのですが、果たして、どこまで
本音で、しゃべったのか推し量ることが出来ません。

乱暴な言い方を承知で言いますが、私は「義務教育」に
大して期待をしていません。
常々言っていますね。
だから子供が学校に行きたくないと言えば、
じゃあ行くなと即答します。
まぁ子供を信用、信頼しているという現われでもあります。

私の子供は「善悪」の区別は完璧に付きます。
従って、悪い、好ましくない行動をしたということは
自分の感情に「素直に」従ったということですね。
確信犯とも言って良いと思います。
わざと、力ずくでもやろうって相手に何を言っても無駄です。

ただ、私も「みんなと同じように」って事には関心があります。
当然、社会に出る定めに有りますから、大抵の事は
自分で解決し、また順応できる能力を身に付けて欲しいと、
それなりに願っています。親なので。
娘の場合、その個性も手伝って、自分を歪める事に
相当にストレスが掛かる様子です。
「潔癖主義」ですし、「正義感」も相当に強いです。
曲がったことが嫌いなので、滅多なことでは非難される
ような行動は起こしません。絶対にです。
規範意識が高く、大人に好かれ易いです。

それでも子供です。
自分が嫌だなと感じることも多いでしょう。
しかし前述の通り、娘は自分の感情を殺してでも
「相手の気持ち」を優先させて、その場の空気を繕います。
人を貶めたり、気分を害するような行動は、いけないことだと
思っているようです。そう教えてきたからです。
その弊害で「自分の気持ち」を表現したり、主張することが
苦手になってしまったようです。困りました。

田舎で育ててしまったせいで、複雑なコミュニケーションの
取り方を学ぶ機会を逃してしまいました。
まぁ中学生頃には誰でも似たような経験をするものですが。
人との「摩擦」からしか学べない事も多く有ります。
自分で考えて、成長して欲しいと強く強く願っています。

それにしても最近の子供の「意地悪」ってのは気持ち悪いですね。
自分がされたイジメを親友に「分からせよう」って思いますかね?
分かって欲しい、助けて欲しいってんじゃないんですよ?!
大切な友達を苛めて苦しめようってんですから。
その苦しみを知って、自分を理解してもらおうってんです。
考えられない...
サイバースペースの影響が大きいと感じますね、やはり。

娘は、その歪んだ心に何ヶ月も寄り添って、限界を超えて
しまったようなのです。娘は一度、嫌になると、もう絶対に
元には戻れない潔癖主義です。
娘の友達は「親友」を手に入れる事は出来ずに、
結局「本物の孤独」を手に入れたことになります。

娘は明日か、明後日?何日後になるかは分かりませんが、
近いうちに学校に行くようになるでしょう。感じます。
行かなくたって良いです。私は。
あんなに良く笑う、笑顔の美しい娘から笑顔が消えてしまう
くらいなら、義務教育なんて必要ありません。
全て私が家で教えます。ひとつも困りません。
学校の駄目教員なんかに教わるより私が教えた方が何倍も
定着率が高いでしょう。

険しく痛いほどの清流にしか住めない魚もいます。
それで良いです。
それが良いです。



もう死んでしまおうと思い、お別れに行った時、
保育器の中の娘が私の小指を握った。
貰った命だ。いつでも娘のためなら手放せる。  

Posted by アーバンギア at 16:57Comments(3)子育て

2016年01月17日

スマホこわれる

さいあくです  

Posted by アーバンギア at 23:13Comments(0)あれこれ

2016年01月16日

大学入試センター試験

今日は、いわゆる「センター試験」の初日だった。

うちの長男も受験した。
どうも上手く行かなかったようだ。
でも、もう終わったことだ。明日に備えて気分を
切り替えなければならない。

センター試験は満点を取る必要は無いのだ。
あまり気にしないことだ。二次試験が大切なのだから。
あくまで「目安」だ。

ただ、うちの子の場合、センターの結果は大きい。
なぜなら未だに受験する学校すら決まっていないからだ。
志望校が、あまりにも難関校なので、模擬試験の
結果では合格の可能性「ほぼゼロ」と出ているのにも
関わらず、とにかく「諦め」の悪いたちで。
まぁ私に「クリソツ」だということなのだが。

センターまでには仕上げるという姿勢で頑張ってきた。
実際おとといくらいに仕上がった様子だった。
理系なのに一番出来るのが「英語」という、毎度毎度
「悲しい」結果の模擬試験。
自信アリアリで受けた本番。どうも英語の出来が
悪かったと。出来るというプライドのせいで、
最初から「飛ばす」ことをしないで、全問正解を
目指してしまったらしい。
リアル馬鹿だ。

明日は全部、理系科目。
鬼門だ。
理系に進学したいのに理系が苦手とは...
これまた父親に似てしまったという。
まぁ一浪したって構わないと言っているので、あまりにも
センターの結果が悪かったら、センターの結果を
「足きり」にしか使わない東大や東工大を受験すれば
面白いとかって思っているのだが。
東大、うけりゃ良いんだよ。

さあ一杯やって寝よっと。  

Posted by アーバンギア at 20:04Comments(0)子育て

2016年01月15日

建築のディテールを真剣に設計していると毎度
ぶち当たる問題がある。

いくつもいくつもあるのだが。
そんな中のひとつに私の場合「樋」の存在がある。
建築物に樋を設ける必要はあるのだろうか。
答えは「NO」だ。

法的な設置義務は無い。しかし、自分の敷地に
降った雨が「他人」、つまり隣地に及ぼす影響に
ついては「措置」を講じるように義務付けている。
当たり前だ。
建築物に降り注いだ雨は「集められる」宿命にある。
水は表面張力がある。余程浸透性が高いものに、
一瞬にして吸水されなければ、一箇所に集まろうとする。

建築物本体で、それを解決することは不可能に近い。
勾配が付いている「道路」でさえ、豪雨の時には、
しっかりとした厚みを持った水の層を作る。
雨は排水溝から溢れ冠水する。

大きな屋根、つまり建築面積が広い場合、そこに
降った雨は「集められる」度合いが高くなる。
屋根に降った雨は滝のようになって流れる。
流量が多いので、そのまま地面に落ちれば泥跳ねが
出来るどころでは済まない。
地面を掘ってしまうだろう。
基礎が飛び出してしまうだろう。

それが隣地にまで及んだら。これは大変な人災だ。
分かっている。
だが建築家の多くはデザイン至上主義だ。
構造強度や機能性が十分に満たされている事は
大前提だとしても、「美しくないデザイン」は
存在するに値しないと考えているのではないだろうか。
私は、そうだ。

対象となるクライアントにも因るが、基本的には
細部にまで拘ったディテールを実施したいと
考えている。
もちろん「がんこ」に見えるものをデザインの主軸に
据えて設計をする場合もある。
豪華絢爛な場合もあるだろう。依頼を受けた事は無いが。
私は、やはり「シンプル」である様子が美しいと
感じて設計をしている。
ただ、このシンプルというのは、ちょっとややこしい。

何でもかんでも「見えない」とか「細い」とかっていう
事ではないのだ。釘の頭が見えていた方が嬉しい
場合も有ったり、材料が、いくつも混んでいたり
するのも好きな時がある。

ただ、このいずれの場合でも「樋」の存在は邪魔になる。
以前にも話したが、屋根の形状は建築にとって重要な
ファクターだ。そのディテールを決定する要素は、
あくまで建築物本体であって「隣地への配慮」では
無いと私は考えている。
とはいえ、先ほどにも言ったように、屋根の形状を
決定する理由のプライオリティが、どんなものであれ、
雨の始末を考えない訳には、いかない事くらい、
私だって十分納得している。

そこで登場するのが「内樋」や「隠し樋」となるのだが。
軒樋を隠して「縦樋」は隠さないのか?となるし、
そもそもが樋が屋根と一体化しているということは、
雨漏りのリスクが一編に何倍にもなるということでもある。
建築の素人では、イメージし辛いかもしれないが、
「軒先」だけが、すっきりしていたって「妻側」の
「破風板」は、どうすんの?とかって問題もある。

こうなると、やはり樋が付いていない状態が一番カッコイイ
ってことになる。雨は地面に作った「吸収装置」で
排水することが理想なのである。
私の場合。
今日は朝から今現在まで「屋根断熱」を採用した場合の
屋根の「厚み」を、どうやったら薄く見せられるのかの
「納まり」について、ずっと決められないでいる。

まったくもって往生際の悪い建築家なのである。  

Posted by アーバンギア at 18:12Comments(0)建築

2016年01月14日

名前

私の仕事机の傍らには「鳥類図鑑」が置いてある。

最近まで植物図鑑なども置いてあった。
仕事で使う建築の書物は「2階」に置いてある。
仕事部屋において置けるスペースが在れば、
置いておきたいのだが、まぁ無いんだからしょうがない。
引き出しに「法令集」と「確認申請memo」だけは
置いてある。

毎日、山道を走っていると素晴らしく例えようのない
景色に出会うこと、しばしば。
美しい「鳥」も沢山見かける。小さな鳥なので、
詳細な「柄」まで確認できないのだが、目を凝らして
姿を目に焼き付ける。
そうなると、もう一刻も早く家に帰りたくて仕方が無い。
記憶が薄れないうちに早く図鑑で調べて、その鳥の
「名前」を知りたいのだ。

同じように「花」や「草」「木」などについても
気になるものは直ぐに調べたい性分なのだ。
そう「名前」を。

この世に存在するものには全て「名前」が付いている。
これは凄いことだと最近しみじみと考えた。
まだ人類と出会っていない「物体」「現象」「思想」
それらには名前が無い。
出会って最初に「される」行為。それが「命名」だ。

「名前」とは恐ろしい存在でもある。
名付けという行為によって「固定」、「区別」される。
選別されることを余儀なくされるのだ。
この「選別」と「識別」は実に似ている。近しい関係だ。
私たち人間には「漏れなく」名前が付いている。
世界中の何処へ行っても、文化の共通を見出せないような
種族であっても必ず「名前」を持っている。
実に不思議だ。
だが、名前が有ることほど「必然」な事象もない。
それは「識別」し「区別」する必要が生きるためには
欠かせない行為だからだ。

私が名前を知りたいのには、それらとは別の理由がある。
私が名前を知りたいのは「話しかける」ためだ。
そして、その出会った「もの」たちを誰かに話したい時、
どれだけ素晴らしく、奇妙であったかを語りたいからだ。
記憶に残しておくにも必須だ。

名前。
上手に付けてあると感心する名前。なんだ?そりゃ!!と
首を傾げたくなる名前。気の毒な名前など。
名前は面白い。

「こんなところのこんなものにも」

名前が付いていることに感心することも相当にある。
肉眼で見ることの出来る「小さな自然」との出会い。
普通の生活の中で感じる「出来事」。
孤独に生きていても思い描く「感情」。

誰でも毎日「名前」を発している。
私は日本語の名前で最も少ない文字数の組み合わせで好きなのは
「愛」だ。たったの二文字。それも五十音の最初の二文字。
誰が付けたのであろう。
想像するだけで、わくわくする。
心の中で呟いた感情に「愛」と名前を付けたのだ。
記憶にとどめようとしたからか。
それとも誰かに「感情」を説明したかったからか。

だが、この「愛」には種類がある。
日本語には分類した個別の名前は存在しない。
私は「アガペー」という名前も私にとって特別な存在だと
出会いに感謝している。

時々わが子の名前を声に出してみる。
そんな時、私は「自分の名前」も言ってみる。
「なぜ」。必ずに近いほど、そのような感情が沸く。
なぜそのように私に名前を付けたのか。
今となっては確かめるすべは無い。
だが。

私が、そうであったように、私の「名付け親」も等しく
アガペーを持ち得た精神状態であったと想像するのであった。



このガイドブックは市役所で無料で手に入れたものだ。
とても良く出来ている。
だが内容が重複している部分も多い。
こういった公費で作られるものは、問題も多い。
これが置いてあった「オクシズ」アピールコーナーには
人気が無かった。残念だ。
運用は大切な行為だ。私は近隣の自然や地名など
詳しく分かって大変に、ありがたかった。  

Posted by アーバンギア at 17:28Comments(0)あれこれ

2016年01月13日

ねます

すいませんもう寝ます。

娘と。  

Posted by アーバンギア at 23:27Comments(0)あれこれ

2016年01月12日

提案

最近、時間の流れが、リアルに感じられない。
昨日のことのように思っていたのにとか、
あれ、もう大分前のことだよねとか思っていたら、
最近の事だったり。

あれとあれは、大分設計時期が違っていると
思っていたものが、ほぼ同時期に設計したもの
だったりとか。

提案。

提案している。
提案を続ける。

なんだったのだろうか。


  

Posted by アーバンギア at 18:10Comments(2)あれこれ建築

2016年01月11日

あきわさん

今日は町内を代表して遠州の秋葉神社に
お札を貰いに行ってきました。

山道は遠く感じられました。
凄いご利益がありそうだ。

自分で参拝すると、お札も格別なものに
見えてくる。
不思議だ。  

Posted by アーバンギア at 17:19Comments(0)あれこれ

2016年01月08日

積雪荷重

今日は寒かったですよね。

暖冬のせいで今日程度の寒さでも寒いと感じます。
まぁ寒いんですけどね。 どっちじゃ?!(笑)

ここ数日滋賀県大津市の専用住宅の設計に
取り組んでおります。少しは仕事をしないと、
生きて行けないので、五里霧中どころか、
2000マイル暴風域って感じでございます。

さて現場は琵琶湖の北西側に位置しています。
自然が沢山残っている田舎で、素晴らしい環境だと
思いました。人口密度は高くもないのですが、
決して私が住んでいる山村のように限界集落という
場所でも有りません。
小さなお子さんが学校に通ったりするには、
市街地に比べれば、やはり難儀をする場所ではあります。

滋賀県は日本列島の腰の部分っていう感じでしょうか。
ギュッとくびれた、日本海にも太平洋にも、程近い
性格の異なる海流と気候の影響を受ける風土でもあります。
雪が降ります。
まぁ日本は、私が住んでいる静岡や例外的に沖縄など
意外では大概多かれ少なかれ降雪がありますけどね。

建築の設計では「荷重」というキーワードが多く
登場します。素人の方が荷重を気にする事は滅多な
事では、ないでしょうな。
しかし設計です。我々建築士は「安全な建物」を
基本的には最も気にして設計しています。
雨漏りなどの品質低下も大切ですが、まぁ兎に角
「崩れない」ってのが最大の前提ですからね。

静定状態でですよ。
地震などの短期と呼んでいる一瞬の力に対する「踏ん張り」
ばかりが話題に上りますが、じっとしている状態で
じっとしていられるか?ってのが最初の検討課題です。
建物が「地面の上」に建っている以上、地面の状態を
無視して静定とかって語れないですけどね。
さて今日は。

屋根を設計していたんです。
ちょっと前にも語りましたが、屋根の構造を「洋小屋」で
組む事は大前提でやっています。
屋根ってのは基本的に「斜め」ですよね。完全な「真平ら」
ってのは有り得ません。雨が降ったら集めて、建物外に
捨てなきゃなりませんからね。
大概は「樋」に集める訳です。
で、その「斜めさ加減」が問題です。

屋根を覆う材料を「屋根葺き材」と言います。
誰でも知っている代表選手が「瓦」ですよね。
スレートという薄い材料もあります。金属板で葺く方法も
一般的ですね。最近では日本瓦で葺く方が断然少ないです。
高価だという理由が最大でしょうね。
それから「意匠性」の問題。純和風の住宅が減りましたから、
白壁の「プロバンス風」とかっていう、デザインに
灰色の三州一文字瓦葺きなんて、全く似合わないって
話なんでしょうね。今書いていて、おっ!結構良いかもとか
思っちゃいましたけどね。

我々建築士の眼からすると、やはり「荷重」が気になります。
瓦の場合、その葺き方の影響で、あまり屋根の勾配を
下げることが出来ません。誤解されやすいのですが、
建築基準法では屋根の勾配を「特段」定めていません。
ネットなんかで基準法で決まっているくらいのことを
堂々と書かれている方もいますが、すげーなと思います。

まぁ一般的には日本瓦の場合、最低でも4寸勾配、スレート
なら3寸勾配、金属屋根も瓦棒葺きなら2寸勾配、段葺きなら
3寸勾配以上を目標に設計します。
ですが、決まっていません。
防水をするからです。
建築基準法では「荷重」に対する検討をするように定めています。
屋根の固定荷重は「屋根葺き材」や「構造物」ですね。
これを支えられるように作るのが「肝要」だと言っているのです。

このように建築物は「安心」の前に「安全」が来ることが
前提だと肝に銘じて設計をする訳ですよ。
で、雨が「どっぷり」溜まってしまう屋根では困るのですが、
陸屋根といってビルの屋上などの場合は、ゲリラ豪雨で
大変なことにもなるでしょうからね。
水ってのは1リットルで1キロですからね。
でっかいビルの屋上に雨が、たっぷり溜まってりゃ、そりゃ
物凄い「荷重」になりますね。

屋根が斜めになっていれば、雨の重さなんて「無い」に
等しいですよね。
ここです。
雪は同じ水分ですが、屋根に「乗ったまま」になります。
湿気を帯びた雪が、どっさり積もったら、こりゃ大変です。
豪雪地帯だったら、もう完全にペッちゃんこって訳です。

屋根が60度以上傾いていたら荷重は「ゼロ」で良いんですよ。
法律では。
60度ってのは凄いですよね。白川郷ですよね。
そこらじゅうの家の屋根が、みんな60度以上の勾配だったら、
不思議な世界ですよね。御伽噺ですよね。
4寸ってのは40パーセントの事を言うんですよ。
22度ないですからね。
60度の斜面をスキーで降りようと思ったら、凄い恐怖ですね。
屋根屋も仕事するの嫌がるでしょうね。

で。滋賀ですよ。
今日は大津市の建築指導課に電話を入れて「積雪荷重」と
「積雪深度」「垂直荷重」について問い合わせました。
女性職員の方が、優しく対応してくれました。
このように小さな特定行政庁ってのは良いです。親切だから。
名古屋や横浜なんて、凄い感じ悪いですよ。言っちゃいますけど。
あっ!でも静岡の富士市役所も感じ悪かったなぁ。
たまたまか?

80センチの積雪ですってよ、おくさん!!
降るなぁと。
でも1mを越えない地域なので豪雪地域には当たりません。
でも80センチも雪が積もったら、凄く重いよなぁ~とか、
独り言を言います。
静岡には雪が積もるどころか、降りませんからね。
安心してください!!降りませんよ!!ですよ。

うちには積もります。静岡だけど。
で、樋とか壊れちゃったし。
だから気にしますね。 軒を「どのくらい」出せるかな?とか。
「出す」じゃなくて「出せるか」です。
屋根ってのは家のデザインを決定する大切なファクターです。
勾配によって立派に見えたり、Too muchに見えたり。
軒が出ている方が伸びやかですが、雪の重さで折れちゃうって
ことも十二分に考えられます。

で、洋小屋。
和小屋と違って母屋のスパンを混ませると意味が無いし、
ダサいしねって。
考えているんですよ。私だって。クライアントは知りません。
最近、そんな苦労なんて知ってもらわなくたって良いやとかって、
考えるようになりましたね。
どうせ認められないんだからとかね。
ふてくされています(笑)

建築家っていうと、やたら「デザイン」とか、まぁ
「間取り」なんかをやる人だって思われてますよね。
まぁ違わないですけど。
建築士になるのって、結構大変でね。
なぁ~んて、たまに言いたくもなるんですよ。

とくに家族にね。  

Posted by アーバンギア at 19:29Comments(0)建築