2014年12月31日

第九

我が家は9人家族。
飯を食うのも風呂に入るも私は、いつでも9番目。

それが私の幸せ。
ただ絶対に譲れない1番目がある。
それは死ぬこと。
家族の誰かを看取るなんて考えることも出来ない。
私は優遇されている。

元旦は冥土の旅への一里塚。
めでたくもあり、めでたくもなし。
明日こそはと、また来年も生きる。  

Posted by アーバンギア at 20:47Comments(3)あれこれ

2014年12月30日

クレーマーから学ぶ

私のブログの閲覧者は圧倒的に「ビジネスマン」だ。
その証拠に「土日」のアクセスが、ガクンと減る。
つまり同業者(建築関係)が読んでいる可能性が
非常に高いと言えるのだ。
いいよ、べつに。

建築家や工事業者から注目される存在。
客から注目されたいものだと若干すねる。

さて、この年の瀬に来て「クレーム」がやってきた。
私のところにではない。
私が設計監理した「分譲住宅」の販売をした
不動産業者のところにだ。
不動産業者は工事を請け負った工務店にクレームの
対応の依頼を出した。
工務店は依頼を受けて比較的速やかに確認して
対応した。「なんともなかった」。

なんとも無かったのが悪い。
なんとも無いものを「なんとかしろ」と言われて
困り果てた工務店が「何の責任も無い」私のところに
電話をかけてきた。
まぁ仕方が無い、散々お世話になった恩人だ。

さて話を聞いてみると「トイレの床に水が染み出る」と
いう内容のクレームらしい。
私は、一通り話を聞いて「そりゃ結露だ」と答えた。

トイレは、その構造上割れてでもいない限り
「漏る」と言う事がない。
トイレに付属するロータンクから出た配管に
漏れが生じる事は、たまにある。
しかし、確認したところ、その形跡は無かったと。
その場で何度か水を流してみても全く漏水の
確認は出来なかったと。
結露だ。

私は納得をしない住人に電話を入れてみた。
詳細に状態を伺った。
結露だ。

それでも私が伺ってみるという申し出を快く受け入れない
住人に、私の知り合いの設備業者を伺わせると言った。
昨晩、住人から電話があった。
「また水が出たので何度も業者に電話してるけど出ない」と。
職人も「正月休み」を人並みに頂戴している。

話を伺った。
業者が着たけれど何にも問題が無いので引き上げると。
もし、また水が出たら電話してくれと言い残したと。
結露だ。

住人は「雨の日や翌日に水が出る」と繰り返す。
窓を開けて換気していますか?の問に「開けている」と答える。
外出して帰ってくると、お掃除をしようと気が付くと
濡れていると答えた。
結露だ。

建築物。住宅においては、その構造上主要な部分の保障期間は
10年とされている。建売住宅の場合、構造を除いた「設備」に
関しては「2年」の瑕疵担保責任期間が設けられている。
建築の請負に関しては引渡しの時に「隠れた瑕疵」については、
その時に発見できなければ責任を負わないとされている。
そもそも物件は6年以上も前に引き渡された。

販売側に設備を保障する義務は消失している。
それでも私は「なんとかして」あげたいと考えた。
知り合いの設備屋に頭を下げた。暮れの忙しいときに金にもならない、
仕事を押し付けたのだ。ありがたい。

夕べの電話で住人は「濡れている」」事実だけを何度も
繰り返した。承知している。
私が結露について説明をするも、それらは「詭弁」にしか
聞こえていない様子であった。
そう「自分が正しい」を絶対に曲げないのだ。
大丈夫。私は、そのような人に慣れている。

住人は言った「それじゃあ、これは直せないんですね?」と。
私は「直るも何も壊れていません。異常はありません」と答えた。
使い方の問題だ。
私は住人に「濡れているところをトイレットペーパーで
拭いてみて、匂いを確認してください」と伝えた。
住人は「おしっこの匂いはしません」と答えた。
私は「それではブルーレットを使ってみてください」とお願いした。
すると住人は「青くなりません」と答えた。
既に使っているということだ。
電話は「トイレ」から掛けられてきたものだった。
結露だ。

住人は窓もちゃんと開けている、換気をしているんだ、
浴室だって使っていないとまで言った。
ファンヒーターの設定温度は16℃だから結露にならないと言った。

私は、それまで「十中八九結露ですと申し上げていますが、
心では100%結露だと確信しています」と言った。
「言い時」だと思ったからだ。
私は、雨の日でも一晩中窓を開けて別の部屋で暖房をして、仮に
それが非暖房室との温度差が「たったの10℃」しかなくても
湿った空気は便器に結露して、フローリングの溝に
水滴を残すでしょうと言い切った。

住人は60近い女性だ。
常識だと思う。ただ常識を知らない人もいる。
触れたり知ったりする機会を逃してしまうのだ。
私は「わからずや」の住人に少々、ほんの少しだけ
「分からない人だなぁ~」と困惑したが、決して
腹など立てなかった。

クレームの電話を入れたのだ。
誰に?
そう、誰に。どういった「目的」で文句を言ったのか。
それが重要だ。
壊れていることが前提なので「直してくれる」人に状態を
説明したかったのであろう。
だが、壊れていないと分かった時点で「私は間違っていない」
心理が働く人がいる。クレーマーだ。
道理が通らないので「ただ単に文句を言っている人」と
なってしまう。私は「様子を見てください」と最初お願いした。
つまり漏水が確認されないのであれば、それが結露であるかどうかを
客観的に判断する「データ」が必要になる。
結露の条件を揃える、若しくは「省く」必要がある。

住人は私が言った「一晩中窓を開けているとか」の
言葉に、あからさまに反応した。
住人は、こう思ったのだろう。
「えっ?!窓は夜には閉めなきゃだめなの?!」と。
「雨の日は閉めなきゃ駄目だったんだ!!」と。
いっぺんに口数が減った。
それまで物凄い勢いで自己主張を繰り出していた住人が、
その言葉を聴いて、黙ってしまった。

私は雨の日には「窓を閉めましょう」と説明するまでの
引渡し時の義務を負っているとは思えない。
だって濡れてしまうことは小学生でも知っていると
思うからだ。
住人は結露の説明をした時にも人の話を最後まで聞かないで
「それならば床全部が濡れるでしょう」といきまいた。
絶句だ。

この方に飽和水蒸気量だの露点温度などの話をしても無駄だ。

今でも勉強になる。
「文句」からしか学べない事がある。
褒められたんでは成長できない。
私は決して窓の開け閉めについて、今後もクライアントに
「文書にして」渡すような事は無いと思うが、
被害妄想を如何に上手に解いて差し上げるかについて、
今後も検討する課題になる事を教えられた。

知らない。
知っている。
そこには価値の違いがある。
知らないものより、知っているものの方が価値がある。
上手に出来ないものよりも上手に出来るものの方が
価値があるのだ。
そして忘れては、ならないのが
「出来るものには責任がある」という
普遍的な存在価値があることを。



僭越ながら夏よりも冬の方が結露を起こしやすい
ことを皆さんにも、お教えしておきたいと思います。

INAXの参考ページ↓
http://inax.lixil.co.jp/support/inquiry/pdf/49107-1.pdf#search='%E4%BE%BF%E5%99%A8%E3%81%AE%E7%B5%90%E9%9C%B2'  

Posted by アーバンギア at 17:06Comments(4)建築

2014年12月29日

豊潤

実に久しぶりに仲間と「良い酒」を呑んだ。
早く言えば宴会を控えていたのだ。
自重。

ストイックな生き方を強いられる人も多い。
やりたくても出来ない境遇も多々ある。

私は赤ワインが好きだ。
それから「山芋」も大好きだ。

これを食うと必ず、必ず「下痢」を起こす。
赤ワインを馬鹿飲みした翌日は悲惨だ。
他の酒類であれば全くそのようなことはない。
白ワインでも起きない。
きっと皮に問題があるのだろう。
だがしかし、私は白よりも断然赤を飲む頻度が高い。

山芋も里芋でさえも食えば途端に口の中が
痒くなり、胃の中も痒くなる。
でも「山掛け」などは大好物で、美味さの方が
勝って、ガンガン食う。

毎日、食っている訳ではないのだ。
赤ワインも毎日は飲まない。飲んでも飲みすぎるほど
飲んだりすることは極々稀な出来事だ。

私は暴飲暴食を好まない。
しかし、酒は友との語らいに「華」を添えてくれる。
リラックス出来る。
山芋も自分で掘って食うか、大和芋を買ってきて
食うのか、どっちにしても「食いたい時」にだけ
食うのである。体に合わなくても大した問題ではない。
本気のアレルギーでアナフィラキシーショックを
起こすようなレベルではないからだ。

下痢は直に止む。病気ではないからだ。
腹の中が掃除できたと思えば良い。

楽しかった。
まぁ私の場合は、その「反動」が結構問題になるのだが。
今日は若干、気分が良い。
満点ではないのは「気遣い」が足りなかったことを
悔やんでいるからだ。
久しぶりに大勢の仲間が集まったので、自分の楽しさを
優先させてしまった。
と、言うよりは、夢中になって舞い上がるほど楽しんでしまった。

人生。
生きることが目的であってはいけないと、私は思っている。
少し良い表現が見つからない。
どのように生きるかを考え、極めることが人間にとって
最も大切だと思っている。

ギスギスした生き方など、生きている価値など無いに
等しいと思うのだ。
細かな事に配慮した生き方は規範学の実践だ。
素晴らしい。

ただ私は人の一生を大局的に見る事も大切だと考えている。
それは、つまり「人の一生の長さ」については誰一人の
例外なく「未知」であることが前提だからだ。
どれほど健康に配慮しても長く生きられる保障は、
どこにもない。だからと言って自暴自棄で自堕落な生活が
健康で豊かな生活を提供する事は在り得ない。

疲れたら休めば良い。
休む必要が無いように「疲れない」ようにするのでは、
生きていることにならないのだ。

一年を振り返って「笑みがこぼれる」ような思い出話を
思い出せるだろうか。
友と一緒に語る事が出来るだろうか。
苦しみから逃れるのではなく、苦しみを打ち負かす。
沢山のエピソードが生まれ、聞くに値する語らいを
作り出すことが出来る。

それが豊潤な人生だと私は思う。

泣いても笑っても一生は一生なのだ。  

Posted by アーバンギア at 17:05Comments(2)あれこれ

2014年12月27日

偏差値

複数から特異性を見つけるための指標を用いる。
製品や集団。

偏差値は学力偏差値と同じだと考えている人も
多いくらいに「学力」の判定に使われる。
今日は、学力についての考察ではない。

偏差値の平均値が50となるようなサンプルに
ならなければ何かの指標には、なりにくい。
山が二つできてしまうとか。
ただ、実際には「人の社会」においては、カーブは
複雑に描かれるはずだ。

所得層などは、ひとつの山になるであろう。
しかし平均の50になる所得層が必ずしも満足の行く
生活レベルを持っているとは限らない。

幸福の度合いを数値で見ることは可能であろうか。

出来るはずがない。
数値化して偏差値を出すには条件を与えなければならない。
例えば「子供が何人」「持ち家は何坪」「自家用車は」など、
豊かさ=幸福だと定義しなければならないし、
結局は、金=幸福だということになり、個人の持つ
価値観を完全に無視する事になる。

ところがだ。
人は、このナンセンスを普通に、普段の生活の中で
行っている。気が付くだろうか。

例えば、子供の数は、どうだろう。
「うちには子供が二人」。我が家のように「7人もの子供」が
いるのは稀だとしても「あの家は子供が4人」もいて
羨ましいとか。もっと言えば「子供がいない」家庭もある。
望んでいないのであれば何の問題も無いのだが、望んでも
授からない家庭にあっては、幸福偏差値に大きく影響する。

住宅。「あの御宅は持ち家だ」「我が家は賃貸アパート」、
狭くて物もしまえない、洗濯物も干すのもやっと。
一人に一部屋、広いリビングに「分かれた」ダイニング。
こっちは冬は、コタツ、夏は、そのままテーブル。寝る時は、
それを上げて布団を敷く。寝食同一。
相当に幸福偏差値に影響する。

あまり触れたくもないのだが、今日は書いておく。
この幸福サンプルを精査してゆくと「所得」を離れ、
「生活」に行き着くのだ。
つまり「どうやって生きているか」によって自分が幸せだの
不幸だのと決めたがるのが人間だ。

年に何回旅行に行くだの、月に何回外食をするだの。
洋服を何着買ったとか、音楽を聴く時間があるとか、
本を読む時間があるとか、夫婦で話す時間が、どれくらいだとか、
子供と過ごす時間があるとか、ないとか。
全て「自己満足」に行き着くはずだ。
つまり「自分が満足していれば幸福」だということになる。
まぁそりゃそうなんだが。

つまり、伴侶、子供といった近親者、家族が不幸でも
自分が満たされていれば幸せだとなる。
偏差値で行けば相当に少ない「幸せもん」ってことになる。
ただし、近親者や家族が、もたらす不幸、ネガティブは
相当に自分の幸福感をスポイルするファクターになる。

つまりは、所得を離れて個人の満足度を増進させるには
「近親者の幸福」は必要不可欠だということになる。
これは大変重要な仮定だ。
血縁関係を持たない、かなり小さなコミュニティでも、
「他人の幸福」を思いやるには力量が必要だ。
エゴイストには絶対に不可能だ。つまりエゴイストは幸福に
なれないという仮定が立つ。

これが国のような単位になると簡単にはいかない。
エゴイストも内包したサンプルになるからだ。
家族の中にも勝手な人間は、いる。大変だ。
一人でも手を焼くのに、国民の多くを占める「幸福感希薄人間」を
幸せにしなければ自分の幸福偏差値が上がらないのであるから。
では排除するか?

サンプルを小さくしてしまおうか。
幸せでないものを身の回りから追いやって、全体のレベルを
上げてしまえば良いのだろうか。
駄目だ。
そんな事をすれば自分の偏差値が下がってしまう。
実に馬鹿馬鹿しい話だ。
自分が幸せになりたいから、足を引っ張るものを排除したのに、
そのせいで自分の幸福感は薄れてしまうなんて。

仮定で言ったように「隣人」が幸福感を上げなければ
自分の幸福度も上がらない。幸福は「もの」では得られない
からだ。主観によるか。
金と物さえあれば自分は幸せだと言うものもいる。
ただ、そいつは偏差値が10以下の存在だ。全体の0.00315%
良い方の偏差値90の存在数と同じだ。
アラブの王様クラスでも、もっと少ない。

最初にも書いたように「幸福度」を数値に表す事は出来ないに
等しいのだ。ただ私は思う。
自分に都合の悪い現実は「出来ない」と一笑に付して、
都合の良い様に「観念的」な話で、まとめてしまうのは
問題から逃げていると。

一見無駄なことでも実際に自分で確かめてみる事が大切だ。
以前にもブログに書いたが、この哲学こそが、カントの
批判哲学の実践だと私は思っている。

どうか逃げないで欲しい。
自分は、そこそこ幸せだなどと言わないで欲しい。
幸せの「度合い」の違うものがいることを意識して欲しい。
そのもの達は決して「不幸」ではないが、満たされて
いないという現実から目を背けないで欲しい。

偏差値の話は無駄話だが、隣人が幸せになってこそ、自分の
幸福が訪れる事実だけは知って置いて欲しい。  

Posted by アーバンギア at 12:49Comments(0)あれこれ

2014年12月26日

生きがい


いきがい【生きがい】

人生の意味や価値など,人の生を鼓舞し,
その人の生を根拠づけるものを広く指す。
〈生きていく上でのはりあい〉といった消極的な生きがいから,
〈人生いかに生くべきか〉といった根源的な問いへの〈解〉と
してのより積極的な生きがいに至るまで,広がりがある。
生きがいは,漠然とした生の実感としてほとんど当人に無意識に
生きられていく場合と,自覚的に人生の営みに取り込まれる場合
とがある。また一方では,自由や平等といった社会原理,
愛や正義といった宗教的格率のように,より普遍的なものに
結晶化し,他方では,諸個人の日常生活に具体化されて
より個別的な姿をとる。


世界大百科事典 第2版の解説

趣味などの「楽しみ」は消極的な生きがいと。
楽しみは人生において、その行為から得られるであろう
効果、価値、張り合いについて「つまらない」ものだと
辞書には記されている。
分かっちゃいたけど、引いてみると、やはりガッカリだ(笑)

普段、私が提唱している「人生は苦労のために存在する」を
説明するにも有効な解説だ。
目的などの具体的な「自覚」が無くとも、生まれれば、
なんとなくでも「死にたくない」ものである。
つまりは「生きがい」を無意識に所有していると言えるのだ。

生まれると言う事は「死なない」ようなプロテクションを
身に着けて「なにかと戦う」準備がなされていると言える。
非常に面白い。
無意識だからこそ意味がある「甲斐」を探求するのだ。
実に面白い。

自分自身に内緒にしておいて、ビックリさせようと
目論んで生まれてくるなんて。

私は夢中で子育てをしてきた。
子供の小さかった頃の写真を整理していると、その時々の
感情が蘇ってきて、時間という波に押しつぶされそうになる。
私にとって「子育て」とは生きがい「そのもの」だった。
今現在においても、それを抜いてしまったら、自分は
何のために存在しているのか、全く理由を見出せない。

早くに両親を亡くした私は「子供に」育ててもらったと言っていい。
結婚をして子供をもうけることがなかったら。
今となっては想像すら出来ない。
子供が増え、また子供たちとの関係が深まるにつれ、
自分の命の尊さは薄れてゆく気がする。
生きることよりも、生きながら作る関係や思想ほど愛おしく、
また失う事への恐怖が増すばかりだ。

やがて子供たちも各々「生きがい」を得て理解を深めるだろう。

この普遍的な営みが絶える事がない限り、複雑な社会と
人間関係、そして地球は永遠の存在だと強く思えてくるのである。  

Posted by アーバンギア at 16:18Comments(1)子育て

2014年12月25日

痛み 疲れ

やたら喉が乾きます。
末端が痛いです。
指先が痺れて痛いです。
凄い倦怠感です。

なのに眠れないとは...  

Posted by アーバンギア at 21:41Comments(1)あれこれ

2014年12月24日

決めておこう

娘二人と「チーズケーキ」作ってます。
寒いです。
クリームチーズが柔らかくならないので、
お部屋でかき混ぜました。
先ほど全ての材料を混ぜ終えて、若干、固まる
のを待っています。クッキーベースに流し込む
のではなくて、スポンジに「塗りたくる」
予定だからです。
頃合いを見計らっている最中です。

うちの子達は(私も含め)生クリームが嫌いです。
だから一般的なショートケーキを食えません。
なのに「一個」もらってしまいました。
どうするんでしょう...
そんな訳で今年は久しぶりにチーズケーキを
作ってみようと思いましてね。
なんでも出来るんですよ、私は。

次女と三女が手伝います。
三女が、いなくなったと思ったら、ノートを
持って来て「さっき何いれたっけ?」と。
彼女は自前の「レシピノート」ってのを持ってます。
私の作る料理のレシピを詳細に記しています。
お嫁に行ったら役に立てるそうです。
泣けますね。

私は母に直接料理を教わった事がありません。
今では、それを最も「後悔」しています。
人生で後悔数あれど。
これだけは、聞いておくべきだったと
料理をするたびに思うくらいです。
「母の味」。
まぁ我が家では「父の味」ってことになりますが。

兄弟は三女の家に遊びに行った時には亡き父の
「在りし日の」あの味を堪能する事が出来るって訳です。

在りし日。
明日は、イエスが生まれたって事になっている日です。
でも、どこの馬の骨とも分からないような人間の
誕生日など、詳細に記されている時代に生まれた
訳でもないので、正直、本当のところは誰にも
分からないのです。

そもそも無宗教、無信仰に近い、我々日本人です。
イエスが生まれた事を2000年以上も経って祝う理由など、
全く見出せないのであります。
私も大した信仰心を持っていないので、クリスマスは
腹の底から嬉しい日では、ありません。
っていうか。
人生でも、最も辛い思い出を与えられた日であります。
今日が一年で「一番」堪えなければならない日なのです。
現在、相当に厳しい精神状態です。

私は「イースター」の方が、よっぽど大切です。
復活祭。
まぁ死んだ人間は生き返りませんから、それは、ないんですけど。
それでも神の存在、イエスの尊さを「微塵」くらい
感じている身なので、そこは嬉しく思います。
「そうだったら良いのに」ナンバーワンでございます。

イエスは4月の、どこかで死にました。

私は長い間「7月7日」に生まれたと母に言われました。
でも戸籍には7月4日に生まれたと記載があります。
相当に自分を苦しめる「エピソード」です。
嫌「でした」。
私は正直「母との血縁関係」をリアルに疑っていた時期もあります。
本当に「拾ってきた子」の可能性。
ゼロではないんです。

でも「たったの5年前」に私の誕生日は7月4日で良いと
私が決めました。
定める。
色々と「決まっていない」と問題があります。
決まっていても「真実」でない可能性もあります。
しかしながら真実よりも大切な事があります。
それは「今」です。

今日から12年前。
私は体が、ばらばらになるかと思うくらいの辛い
経験をしました。入水自殺を試みましたが、生きています。
随分と時間が経ちました。
そこから「何を学び」「何を得た」のか考えるのには
「その日」が定められていなければ複雑になります。

なぜ、そのような事が起きたのか。
静かに考えます。年月が経つにつれ、より複雑に自分の
行いについて考えることが出来ます。
より豊かな「明日」を作るため。過ごすため。
理想の幸せを実現するため。
「起源」について決めておく事は有効です。

キリストは生まれました。
そして死にました。
自然死では、ありません。
他殺です。
法を犯しました。ですから罪人です。
罪人が処刑されたのです。

昨年クリスマスに日本で死刑を執行しました。
身の毛がよだちました。
紛争や戦争地でも「休戦」する日なのに。
無抵抗の人間を首に縄をかけて殺したのです。
法の下に。

夕べ「テルマエロマエ」を見ました。
楽しかったです。とても楽しい時間でした。
ローマは「極端」な街でした。
平和ではなかった。
でも「恐ろしく平和」な都市だった。
分かりますか?

価値観が違うもの同士が共有できる「平和」など
在り得ないのかもしれない。
私も12年前そう思った。
だが、それでは一団の都市を築けないのではないだろうか。
一緒に住む。最小限の単位「家族」。
私は価値観によらない平和的で協調性に溢れた
「コングロマリット」のようなものを作ろうと立ち上がった。
随分といじけた。

でも「何が」出来るだろうと考えた。
それらは「なぜ」という想いから出発した。
様々な経緯を経て現在に至っている。
まだまだ道は途中だ。
常に考える。これからも考える。

いつだって思い起こすのは「あの日」だ。
定める。
自らを戒め、再び一年を有意義に過ごすための「一日」。
家族を真実の方向へ牽引するための「大切な日」。
今日が、少しでも多くの人々に幸せと勇気をもたらせる日で
ありますように。
臆面も無く祈りを捧げる。  

Posted by アーバンギア at 15:04Comments(2)あれこれ

2014年12月23日

酷い頭痛

反動が、デカイ。
あ~なんちゅう病気だ...  

Posted by アーバンギア at 19:45Comments(3)あれこれ

2014年12月21日

印刷設定 エプソン

年賀状。
なんなんですかね。
私は、これほど無駄なものはないと思っています。
無駄なものナンバーワン!!必要なものワーストワン!!

紙を無駄に使うのをやめましょうよ。
PDFがあるじゃないですか!!
解像度も、よっぽど高いですよ!!

郵便配達員に正月休みを与えましょうよ。
学生に無理なバイトをさせないようにしましょうよ。
杉尾町民に、まともな元旦を授けましょうよ!!

作りました。2015年版。
印刷しました。しています。文句を言いながら。
で!!!!!
なんで綺麗に印刷できないの?!エプソンさん!!
セイコーさん!!!
駄目です。
ペロンと出てくるダウンリストの通りの設定では
綺麗な印刷は出来ません。

インクジェットはがき、なる設定では全く駄目です。
横に線が入っちゃう!!
もしファイルを「RGB」形式で作っているなら、
プロファイルでAdobeのRGBにしましょう。
んで、紙は「フォトマット紙」にして、プロファイルで
「スーパーフォト」にしましょう。

すると嘘のように綺麗にプリントアウト出来ます。
これPX-5000っていう、ふ~るいプリンターの
設定の話ですけどね。
参考になりますか。ん?!ならない?!

あ~あ~良いよ、良いよ。
ど~せ俺は貧乏だよ!!
新しいの買えね~よ!!

ガンマ値は2.2にしましょう。
※まだ言うかって?!  

Posted by アーバンギア at 17:44Comments(2)あれこれ

2014年12月20日

月ってのは、あれだよな。
きっと間違いなく「まん丸」だよな。
天文学とか物理学的に完全じゃないかもしれないけど、
まぁ玉っころで良いんだよな。

月の裏側。
我々は死んでも見ることが出来ない。
ん?!死ねば見れるぞ!!
宇宙飛行士だって、あんまりにも寒くて月の裏側には
行けないんだ。死んじゃう。

晴れてりゃ大概、お月様は拝めるぞ。
真ん丸に見えなくても、丸いって思ってるぞ。
見えなくたって疑う奴は、そうそういないぞ。
裏があるって思ってる奴は少ないだろ?
なんでか分からないけど「玉」だって思うのと、
こっちの「裏側」ってのがあるって思うのは違う。

平べったいものには表と裏が、ある気がしてならない。
なんで玉には裏があるように感じないのだろう。
やっぱ段々「向こう」になってくからかな。
ずーっと遠くで見てれば「へり」から向こうは
見えないんだから、平べったいのと変わんないのに。

平べったい人は裏があると思われるのか。
まぁ~るい人は裏があるんじゃなくて、向こうまで
まぁ~るい人だと思われるんだな。きっと。  

Posted by アーバンギア at 18:53Comments(4)あれこれ

2014年12月19日

若草物語

人。
笑っている。
怒っている。
泣いている。

涙は不思議だ。

笑いながら泣いている。
怒りながら泣いている。

いずれの感情の場合でも泣ける。

泣いている人を見ると。
苦しんでいる人を見ると。
心は、ざわめく。
どうしたらいい。どうしようと。

涙は人の感情に「深み」を与える。
人を本気にさせる。
みんな同じだ。

みんな柔らかい心を持っている。
誰一人として例外無く、心は
傷になりやすい。
そっと扱いたい。

人の人生から学ぶ事も多い。
気が付くといった方が適切だ。
目が開くとも言える。

今が、どんなに辛くとも静かに時を待とう。
自分だけが辛いなどということは無い。
希望を持てなければ想像してみよう。
こんなだったら良いのにと。
そうなるかどうかなんて考えるのは止めよう。
とにかく想像してみる。

誰にも邪魔されない。
そっと心で想うんだ。
背筋を伸ばして想像してみよう。
今は冬を楽しもう。
何をしても、何もしなくても、やがて
春は、やってくる。やがて。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E8%8D%89%E7%89%A9%E8%AA%9E

20年も前の歌唱力ですから、ご容赦ください。
大切な人達に私からのプレゼントです。
ちなみにジュディー・ガーランドのオリジナルの歌詞で
歌っております。

※バックトラックは今では、イチジク農家のキーボーディストが
作ってくれました。最後リットしろって、しつこく言ったのに...

  

Posted by アーバンギア at 16:08Comments(2)あれこれ

2014年12月18日

妄信

私は天性の「レトリック」のセンスの持ち主だと思う。

しかし、レトリックも人が持っている「妄信」の
前には成す術も無いように感じる。

ネクタイをしている人は真面目。
青いネクタイをしている人は誠実。
スーツを着ている人は真面目。
紺のスーツを着ている人は信用できる。
大きなビルの会社は信頼できる。
TVでCMを流している会社は品質が高い。
雑誌に紹介された人は力がある。
本を書いている人は完璧な人。
有名大学を卒業している人は、エキスパート。

その反対をすれば。
ポロシャツの人は軽薄。
赤いネクタイをしている人は裏がある。
カジュアルな服装の人は無責任。
グレーのスーツを着ている人は裏切る。
個人経営の自営業主は信頼できない。
広告を出していない会社は粗悪な仕事をする。
無名の人は実力が無い。
本を出していない人は未熟者。
高卒の人は仕事が出来ない。

なぜ人は妄信的に「ふるいに掛けられた」ものを
信用するのだろう。確立の問題か?
これは、パラドックスに落ちる要素を多分に含んでいる。
いくつかの選択肢が、あって、それらの中から
「最善」を選び抜く事になったとき。
我々は最善を選び抜く能力を持っていないに等しい。

無意識に「良し」としている「コモンセンス」は
概ね自らが検証した根拠に基づいていないからだ。
これは「プロパガンダ」によって作られた「誘導」に
乗せられるという事でもある。

私は個人を中傷することを好まないので公には
話したり出来ないが、潜んでいる。
「素晴らしい」とされる輝きの中には「悪意」と
「価値の無いもの」が、極々普通に紛れ込んでいる。
騙されるというより「引いてはならない」。

つまらない「価値観」の呪縛から解き放たれる努力を
本気で行わなければ、大切な財産を虚栄の海に
放り投げる事になる。

浮かれない事が大切だ。  

Posted by アーバンギア at 21:36Comments(0)あれこれ

2014年12月17日

思慮

私は相当に苦しい心境でも文章を書くときには
読む人がいることを意識して書いている。
思いやりではなく、何かを感じる一石になればと
思って書いている。
それは家族であり友人であり、私を「想う」人達に。

言葉は衝動と共に生まれ出る。
文章は生まれた言葉を意識で整理し、決して冷静さを
欠いたものであっては、ならない。
なぜなら、それが己であれ他人であれ「伝える」
手段であるからだ。
自ら残した文章も改めて読み返してみると、必ず
「感じる」ものがある。新たに生まれてくる。

他人も感じる。
出来うる事ならば、なるべく言葉を噛み締めて欲しい。
文章を、ゆっくりと何度も何度も時間を置いて
「楽しんで」欲しい。
それは限りのある「人の一日」にあって、とても
豊かな時間をもたらせてくれると信じているからだ。
文を読み、人の想いを想像してみる。
自分の心に映してみる。

私は滅多に他人のブログにコメントを残さない。
またコメントが入っても「感じない」ものや、
それで「終止とした」方が余韻が感じられる場合には
コメントを返さない。
ここは私のファームだから、それで良いと思っている。
私の記事を読んで考える。
それを読んだ方のコメントを読んで考える。

一日に200人くらいの方が毎日、この手記を読む。
様々な「豊かな時間」を提供できれば良いと思って
ブログを書き続けている。
言葉は一旦、口にしてしまったら、それを収める場所を
探すのは容易ではない。
言葉が「納まる」場所。
それは人の心だ。心の中に残る。

思慮。それは大切なメソッドだ。
言葉を使う人間にとって、このメソッドは、長い年月を経て
今現在においても「未完」のままだ。
だからこそ慎重に操りたいものだと自らを戒める。

私は時々記しているのだが、このブログは「妻」と「子供」、
「自分」に向けて書いている。極々稀に友人や社会に向けての
メッセージを書き残す。

私は、ペシミストだという自覚があるが、ペシミスティックとは、
決して全てにおいて悲観的な考えを持っているものだとは、
私は考えていない。つまり楽観主義者の物事の「影」を見ない、
又は「見えない振り」をする姿勢が許せないのだ。
私は逃げない。
現実は半分半分なんかではない。

凡その人が知っているように、人生は悲しみと苦しみに満ちている。
それを否定して、幸福にために、それらが存在しているかのように
語る人を私は許せないのだ。
人生は悲しみに満ちてこそ「豊か」だと言える。
悲しみは人だ。先にも言ったように苦しみと悲しみに支配されている
人生を感じることは、その人を理解し、受け入れた事と同じだ。

極々一部の「幸福」とだけ付き合っていたのでは、その人を
知った事にはならない。
楽しいだけの、笑い合うだけの付き合いならば、私には必要ない。
忙しく悩ましい人生において無駄に感じる時間だ。
儀礼も必要ない。
時間の無駄だ。

体は、ひとつしかない。
私は心から愛している魂の悲しみに寄り添っていたい。
誰にもかれにも出来る事ではないのだ。限られた時間の中で、
自分が感じる魂と人生を「共有」することが生まれてきた
理由だと強く信じているからだ。

本当の悲しい己を知っているものは、悲しむ人に辛く当たらない。
悲しい姿を「笑顔」で涙を流しながら見守る事しかできない。
道に転んで泣いている子供に、そんなものは大したことはない、
泣いていないで立ち上がれと言える大人は立派だと感心する。
私は泣いている子供の気持ちが痛いほど分かる。
ああ、やちゃったねと困った笑顔で、きっと涙を禁じ得ないであろう。

一緒にしゃがんで膝を擦ってあげるしか出来ないであろう。
いつの間にか痛みも「許容」できるくらいになれば、子供も
きっと自分で立ち上がって「礼のひとつも言わないで」
走り去ってゆく事を「経験」で知っているからだ。
大丈夫だと分かっていても涙は自然と出る。

悲しみは癒えない。
忘れるだけだ。
悲しみは人生においての「クロニクル」だ。
癒える必要はない。
悲しみは消えない。
なぜなら、それこそが「人生」だからだ。

決してやってはいけないこと。
人の悲しみから「勇気」など貰うな。
下卑た人間のすることだ。
笑顔を見て「幸福」だと直感するな。
愚鈍な人間のすることだ。

私は写真の真ん中に納まった人の表情よりも回りにいる人の
表情の方が気になる。シャッターを切った人間の気持ちは
滅多に想像しない。時間の無駄だと思うからだ。
分かりやすい苦労をしている人が浮かべる笑顔。
私には悲しみに満ちて見える。
その周りにいる人達の心の中を想像してみる。
筆舌し難い悲しみで溢れているように見える。

共に悲しみを共有しているのだ。
そして笑っている。
彼等は幸せだ。
真実の人生を共に歩んでいるのだから。

http://spotlight-media.jp/article/85737475877475660  

Posted by アーバンギア at 10:41Comments(2)あれこれ

2014年12月16日

1/365

出っ張ったり引っ込んだり

良かったり悪かったり

そういう毎日

ただ俺は生きている。
物じゃない。機械じゃない。

心も感情もある。

そういう相手だと思って接することは
出来ないのだろうか。

私も暖かで麗しい空間に、じっとしていたい。




  

Posted by アーバンギア at 13:10Comments(2)子育て

2014年12月15日

半分

君が笑うと僕も笑う

君が怒ると僕は恐れる

君が恐れると僕は悲しい

君が悲しいと僕も悲しい

愛の半分は悲しみだ  

Posted by アーバンギア at 11:50Comments(3)あれこれ

2014年12月13日

きしむ音

もう限界な状態を感じます。

脆性的な崩壊。
私の中の柱や梁が気味の悪い音を立てています。

自分の中で天井を見上げているようです。
この虚構も直に終わりを迎えるのだろう。

私にとって、怒りこそが力の源だったのに。
もう何も感じなくなってきている。
もうどうだって良い。

ただ雪が激しくなってきたのが気になる。
明日は下山しなければならない。

それすら叶いそうもない。
もう地面は薄っすらと白くなっている。  

Posted by アーバンギア at 15:44Comments(2)あれこれ

2014年12月12日

今、何を考えていますか

何を考えていますか?
楽しい事ですか?
恐ろしい事ですか?
悲しい事ですか?

ボーっとしてましたか?

たったの「よっつ」しかない感情ですが、
振った珠が、どこに入るのか、じっと
息を殺して見守っています。

私は自分の感情を運命と「相手」に委ねています。

全て「相手」次第なんです。  

Posted by アーバンギア at 19:00Comments(4)あれこれ

2014年12月11日

予告

明日は記事を投稿しますよ。

きっとね。

掴り立ち。

健常者には理解できないでしょうな。  

Posted by アーバンギア at 21:51Comments(2)あれこれ

2014年12月09日

静かな死

昨日。生活に使う国道の道端に一頭のカモシカがいた。
朝から夕方までいた。
情報によると、その前の日からいたそうだ。

長男を夕方迎えに行く途中、山道は、すっかり
暗闇に包まれていた。
いた。
夕方見たときには立っていたのだが、足をたたんで
地面に横になっていた。弱っている。

私は近くに寄って何度も何度も、こっちに来いと
呼びかけた。相手は野生だ。短いけれど鋭い角も生えている。
近寄れば警戒して襲ってくる確立も高い。
30分以上いたと思う。山を降りてきたドライバーが
明かりを照らしてくれたりしたが、身動き一つしない
カモシカに、何も出来ないと過ぎ去ってゆく。

私は業を煮やして、カモシカに近づいた。
角を、そっとなでて話しかけた。
一緒に病院に行こうと。耳の後ろを、そっと撫でた。
カモシカは私の方を向いた。
瞳は白く濁っていた。白内障だ。
年老いている。
見ても外傷は見当たらない。老衰だ。

涙を流している。

息子を迎えに山を降りた。
息子を街で拾って帰ってくると、カモシカは、そこにいた。
県庁の担当に電話しても動物園に電話しても、
何も出来ないと言われた。
それは、そうだろう。
怪我をしているわけではない。

自然。
厳しい。
人も動物も、いずれは死ぬ。
私は、カモシカの顔を覗き込むと、心の中で別れを告げた。
明日の朝まで「持つ」とは思えなかった。
車に在ったダンボールを広げてカモシカを霜から守って
あげたかった。するとカモシカは、最後の力を振り絞る
ように切り立つ斜面に駆け上がった。

私は慌てた。
無理をさせないよう、そうっと車に戻った。
広げたダンボールに横になってくれれば湧き水に凍えないで
済むと思ったのだが。
いつまでも見守っているわけにはいかない。
それでは、カモシカが落ち着かない。

私は、その場を後にした。

カモシカの白内障を見たときに、私は祖母を瞬時に思い浮かべた。
祖母は両目を失明寸前までの白内障に犯されていた。
長い間ずっと。
優しい「おばあちゃん」だった。もちろん「ただの一度」だって
怒られた事も、叱られた事も無かった。
いつも物静かで優しい祖母だった。
白髪頭をお団子にして結っていた。

カモシカの白い背中。
そっと撫でてみた。
そのカモシカは見まごうことなく「あの」カモシカだった。
私が、この山に越してきて初めて見た「野生」。
感動以外の何ものでもなかった。
元気な頃の写真も残っている。
子連れでいるところにも遭遇している。

今朝になって息子を学校に送っていくと。
ダンボールの場所にカモシカの姿は無かった。
車を降りて辺りを見回すも姿を見つけることは出来なかった。
元気になどなるはずも無い。
やはり最後の場所は、ひとり静かになれる場所を選んだのだろう。
その手助けだけは出来たのかもしれない。

気が沈んだ。

午後になって用事もあって、再び山道を降りる。
すると、そのカモシカが縄張りにしていた斜面に一頭のカモシカが
いるのを発見する事ができた。
写真を撮ろうと車のドアを開けると、物凄い勢いで90度近くの
急斜面を駆け上がって行った。
若いカモシカだ。
そう、死期を迎えたカモシカの「子供」だ。

いつの日にか見た、あの小さな小さなカモシカが、すっかり
立派な体格になっていた。
気分が晴れた。

そうだ。順番なのだ。

夕べ息子が言った。
「あの場所に、またカモシカが来るかな」。
さっそく来た。
息子は、こうも言った。
「人間より先に暮らしていたのに」
そうだ。この山は元々、動物たちのものだ。
我々は侵略者だ。

家内は言った。
「でも動物園なんかで暮らすより、よっぽどましだ」。
そうだ。どのように手厚くされても、檻の中で
暮らすなんて、決して受け入れられない環境だ。
戦っている。

自然は厳しい。
彼らにとっても「人間は自然の一部」なのである。
厳しい自然環境を掻い潜って天寿を全うする。

姿を消したカモシカは、数いる動物の中でも相当に幸せな
一生を送った一頭である。

取るに足らない生命なのか。
私も似たようなものだ。
どのように命を貴んだところで、それは「たったのひとつ」。
それでも今ここにいる生命は、ただ一つの例外なく
「たった一つの生命」なくして存在し得ないのである。

  

Posted by アーバンギア at 19:12Comments(3)あれこれ

2014年12月08日

なぜ生きているんだろう

不思議だ。
生きていたくなくても生きてる。

死にたくないとおもっているのに
死ななければならない。

不条理ってのは、この事を言うんじゃないか。

何で今日も生きてる。
申し訳ないが、何も得ることが出来ない、
無駄な1/人生を使ってしまった。

誰に申し訳ないのか、それも分からないが。  

Posted by アーバンギア at 16:09Comments(4)あれこれ