2016年06月30日

定石

物事をするのに「最善」な方法。それが定石だ。
元々は囲碁から来ている。そこへ石を打つことが
当たり前、一番良いとされる戦術というものがある。

それは経験から来る戦法であり、法則なのだ。
しかし囲碁は勿論の事、勝敗が着くものに「当たり前」
とは、実に「思い上がった」行為だと私は思っている。

確かに「確立」は存在する。定石も有ることは有る。
だが、それはあくまでも「途中」までだ。
定石が通用するところは、正直「どうでもいい」シーンだ。
自分で考えなければならないシーン。
未経験の窮地。
未経験の究極の選択。

人は常に試されているといっていい。
選択によって人の「人間性」が現れる。決定といえる。
つまり、自分を自分で「決めた」ということだ。
人が押した烙印では無い。自分で、そのような人間に
なることを意思決定したのだ。

私は。
私は、選択の余地がないほど追い詰められても、まだ
人には「選択」が有るのだと知った。もっと言えば
「選択」から逃れる事は出来ないのだと知らされた。
実に不思議だ。
物質が理論的には永遠に1/2することが可能なように、
人は生きている限り「どちらか」を選ぶことが出来る。
永遠にだ。もしかすると死をもって、この世を去ることに
なっても、まだ魂は選択を許されるのかもしれない。
選択から逃れられないのかもしれない。

人それぞれ生き方が違うということは、人生において
定石など存在しないのかもしれない。
たったの「二つ」を選び続けるだけで、人は全く違った
人生を送ることになる。

正解?
誰かが決めることではない。自分で決めること。
間違い?
それも自分で決めること。  

Posted by アーバンギア at 20:01Comments(0)あれこれ

2016年06月29日

家を建てる

家が欲しい。
家が欲しい。
そう思う人は多い。

なぜ家が欲しい。
「問題」と「夢」があるからだ。
家を建てるということは「問題」を解決し、
「夢」を実現することと同じだ。
「夢」は暮らしだ。暮らしは未来だ。

どんな家が欲しいという問いかけは、
「どんな夢があるのですか?」と
問いかけるのと同じだ。

夢を形にする、問題を解決する、実に
やりがいのある職業が建築士だ。
人の健康と財産、そして生命を守る職業だ。

そんな大層な「意義」など全く考えないで
設計の仕事を始めた。
その大層な意義を「いつ頃」から感じるように
なっただろうか。誰にも、その大層な意義を
教示されたことがない事が私にとっては
最も幸せなことだった。
自分で見つけることが出来た。
自分で、それに出会うことが出来た。

今は「丁度いい」というものが、はっきりと
見えるようになった。円熟か。
まだこれ以上何か洗練されるのだろうか。
今、自分では最高のものを作り出せる気がする。
今を過ぎると、そこをなぞるだけの人生に
なるような気もする。

丁度良い。
丁度良い。
実に、ほっとする言葉だ。

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Posted by アーバンギア at 21:14Comments(0)あれこれ子育て建築

2016年06月28日

心霊の正体

馬鹿にしても良いです。
私を良く知る人ならば、私が「弩ストレート」な人間だと
十分承知しておられると思いますけどね。

さて、実は今日「小学生組み」の三人は学校を休みました。
理由は「学校に行きたくないから」です。
私は行きたくないものを無理に行かせたりしない人間です。
余程のことでもない限り人に「無理強い」をしません。
再三言っているように、この世で最も尊いものは「自由」
なので。従って自由を奪うような事は極力避けている次第です。

ですが、風邪を引いて熱があって寝込んでいる訳ではありません。
だらだらと一日過ごすなんてことを私が許す訳はありません。
幸い今日は建築確認申請を作らなければならなかったので、
一日在宅です。朝ごはんを自分たちで食べさせると、
今日は「何」をするのか、考えさせました。基本的に私は
「最初に尋ねる」姿勢を貫きます。理由は言いません。
そんなの「ただの理屈」なので、つらつら書く価値も有りません。

子供は「問われる」と、はっきりものを言いません。
これは子供の特徴です。極々稀にハキハキと理路整然と
自分の考えを言う子供がいます。実に特殊な存在です。
うちの子は凡人から生まれた凡人の子供です。
父親の私が問うても、やはり「もごもご」として聞きづらい
トーンで、しかも中々自分の考えを言いません。

考えというか、「気持ち」を聞きだしたいのに言わないのです。
なぜでしょう?
それは「学校」の教育指導が悪いからです。
嫌、悪いというのは表面的過ぎますね。そうじゃないです、
教育指導の「現われ」という事です。

例えば、ひとつのテーマで話をしているときに、こちらから
「なぜ、そう思ったか?」と尋ねると、子供は半分ニヤけた
表情になり、首を傾げたり、体をくねったりしながら、もじもじ
し始めます。大概の子供がそうです。必ず「半笑い」です。
これは、照れているのではありません。緊張の表れです。
つまり「正解」を言おうと無意識に行動するのです。
「尋ねられる」という行為は日常では「学校」だけに限られると
言っても過言ではありません。
家庭での日常会話で「尋ねる」という行為は、即物的で、
回答に悩むような質問は有り得ないはずです。

例えば「なんで、お前は~なんだ?」と尋ねているのは、
尋ねているのではなくて「非難」をしているのです。
もし、この問いかけに「まともに」答えるのであれば、それは
「コント」です。来日したての外国人だけでは無いでしょうか。
ですから、子供は不遜な態度を採ります。正解です。
それ以外に家庭で「尋ねる」とすれば、例えば
「ねえ、はさみ、どこにやったか知らない?」のような場合です。

ですから、本気で「回答」しなければならないような、つまり
思考しなければならないような質問に対しては、まるで
「学校の先生に」質問をされているような感覚に陥るのです。
そして「正しい答え」を言わなければならない、間違ってはいけない
という思いから、あの半笑いで、体をクネクネさせる行動に
出るのだと思うのです。

私は、お前たちの「気持ち」を聞きたいんだ、ここは学校でも
パパは先生でもないんだから、思ったように言いなさいと言います。
が、やはり答えません。随分と染み付いてしまっているのですね。
私は、少しの間を開けると小さな娘から順番に質問を「繰り返し」
振り続けます。すると「観念」して大きな子から「それらしい」
答えを言うようになります。すると小さな子も「必ず」意見を言います。
ですが、その答えは稚拙です。ですから、もう少しマシな回答が
得られるまで繰り返します。
しかし私は決して「正解」を求めません。
もちろん私が「望む」決定的な回答は存在します。ですが、
そんなものは、その後の「考察」について大した意味を持ちません。

大切な事は「みんなで考え」「自分の考えを持ち」それを「共有」し
個人を「認めて」もらうことなのです。

意見や考えは様々であって「当然」なのです。それで「良い」とは
思っていません、私は。考えがひとつだったら、社会はまとまりやすいです。
福音が多く訪れます。しかし多くの人が「たったのひとつ」の意見しか
持ち合わせなく、その、たったのひとつの意見でイデオロギーを
集約させる必要も無いほどに、単純に、まとまって行くなどとは
妄想以外の何物でもないと思うのです。

子育てには苦労します。
どれだけ丁寧に諭すように、また気が遠くなるほど時間をかけて、
飽きずに何度も何度も繰り返しても「大人が思ったように」また
「まともな人間」が思ったようには成長してくれません。
ここが肝心です。つまり、どれだけ苦心しても恐らく理想的な人間には
「ならない」のです。よく言う「三つ子の魂百までも」です。
小学生は7歳から12歳です。
もう無理なんです。
ですが、指導の手を緩めるわけには行きません。
そこが「まともな大人」の辛いところです。この「まともな大人」には
教育熱心な教員も入ります。一生懸命だという事は「辛さ」の方が
圧倒的に日常を支配します。

だからこそ、自分を戒めるのです。
「そっち側」に回っては負けなのです。辛いです。指導者は。
この我慢は、どうすれば出来るのでしょうか。全ての子を持つ親は、
このことに無頓着ではいられません。
しかし、「自分の都合」に合わないからと腹を立てては「人のため」という
大命題が、何処かへ行ってしまいます。
子供とは根競べです。
子供は強いです。もし学校で「良い顔」をしている子供がいたら、
それは、ただの「外面」です。
子供は強敵です。大人が、特に「立派な大人」が、下手を打つのを
手ぐすね引いて待っています。

私には「いくつか」子育ての秘訣のようなものがあります。
しかし、それを紹介しようなどとは思いません。人によって、効果が
分かれるような「とんち」など、威張って言うものでは無いと
思っているからです。
各家庭で工夫をされたら良いです。学校でも一生懸命に工夫したら良いです。

今朝は8:30から国語の授業をやらせました。各々書いた作文で考える
時間を作りました。同時に道徳の授業を行った訳です。その後、算数を
やらせました。自分たちで決めたことをやりました。
課題をやりとげた子供たちは各々褒められてご機嫌です。
トランペットまで出してきて吹いていました(笑)
そして今日の自習の最後に「おさらい」をしました。
それは「どうやったら思うように生きられるか」です。
楽しく生きる「こつ」があります。実に明快です。簡単です。

人を育てることは、そんなに簡単な事ではありません。
先ほども言ったように、人は変わりません。
私が熱心に指導したことも、ものの数時間で元通りです。
昨日書いた記事にある「可逆性」とは、この事です。
ですが「変わらない」ことは紛れもない事実なのですが「付け加える」
事は誰にでも出来るのです。

粋な言い方をすれば「しなやか」な人間になるということです。
柔軟性があるということですね。
対応能力が上がれば、他人や社会とも上手に関わっていけます。
つまり「他人を理解する」という思考と行動が備わったということです。

今日の最後の「集い」をしている時です。
壊れて電源すら入らなくなったiPhoneが呼び出し音を鳴らしました。
子供たちは驚いて部屋の外へと逃げ出しました。
私が今日「一番言いたかったこと」を言おうとした時でした。
「さあ、よく聞いていろよ」とご先祖様が言っているような気がしました。
子供たちも一気に背筋が伸びましたよ(笑)

正体の知れないものに対する恐怖。
姿の見えないものだから怖いのでしょうか。
私は「ものを言わない」ものだから怖いのだと思うのです。
自分の考えを言えるようになるには、人の考えが「正確に」
理解することが出来るということが絶対の条件なのです。
自分の考えを「言葉」にして、しっかりと「口」に出来たとき。
はじめてコミュニケーション、つまり「関係」が始まるのです。  

Posted by アーバンギア at 20:37Comments(0)子育て

2016年06月27日

滑稽なこと

先日、家内が小学校の参観会に参加した。
大変ありがたい文章を頂いて帰ってきた。
私は、その文章を何度も何度も読み返した。
ゆっくりゆっくり噛締めるように読んだ。

何度も恥ずかしくなったり、目頭が熱くなったりした。
自分が、どするべきか分かっているのに、それを
「感情」という個人的な衝動で、道徳を恣意的に
強要しているに過ぎないのだ。子育て以外でも、
例えば会社や組織など、上下の関係が明確であれば
明確であるほど、そういった「愚か」な「指導」は
何処にでも存在する。


子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる

不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうだ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる

子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる

親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる

叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる

広い心で接すれば、キレる子にはならない



これは前半の文章です。ここまでが子供に対して
「してはいけない」行為として例を挙げています。
後半の文章は、子どもに対して「してあげる」ことで、
豊かな人間に成長させる秘訣を挙げてあります。
そこは割愛します。

それでは、少し文章を変えて読んでみましょう。



子は教師の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる

とげとげした教室で育つと、子どもは、乱暴になる

※1不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

※2「かわいそうだ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる

※3子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる

※4教師が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる

叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる

広い心で接すれば、キレる子にはならない


私が「滑稽」だと感じたのは、すなわち「これ」です。
自分のところが出来てもいないことを、親に手紙にして渡す。
厚顔無恥にも程があります。
よく学校で聞くというか耳にする言葉があります。
「家庭と地域と連携して」です。
もし、この「お題目」が本気ならば、このように子どもを
育てたいので、ご家庭でもご賛同願いたいと言うべきです。
規範意識が低いから、このような「間抜け」なことをするのです。

上手なことを考えるよりも、上記の訓示を実行するだけで、
それは相当に「幼いもの」「弱いもの」「未来があるもの」
にとっては幸せな環境になることでしょう。

私など「褒めるところがないから褒めないのだ」と、にべも無い
くちなのですが、教員にあっては、それでは全く失格なのです。
神に仕える司祭も同様です。人を導く立場にあるものは「等しく」、
この訓示あるように接しなければならないということです。

※1の「不安な気持ちで」という部分ですが、これは「能力を見限る」と
いうことです。この子は「馬鹿」だろうとか、どうせ出来ないだろうと、
教員は見ています。これは子供に簡単に伝わります。
※2の「かわいそうだ」も同様です。「お前は~だから」と口癖に
言われては、子供は自分が、つまらない能力の低い人間だと
信じきります。
※3は直接馬鹿にしなくても「他校の生徒」と比較することで、
大変に自信を喪失します。教員は転勤の多い職業です。他校での
教室運営が上手くいったからといって、そのメソッドが繰り返し
有効だというロジックにはなりません。

それどころか、教師が「悦に入っていないか」自問自答することが
最も大切なことなのです。もしも優秀な指導者ならば子供に
対する「可逆性」を疑ってみなければなりません。

私は非常に辛い中学校生活を送りました。思い出したくないほど
の「地獄」です。あの3年間がトラウマになって「今」の自分が
形になっていると思います。原因を作ったのは、ほぼ「教師」です。
自分では教育を施していると思い込んでいるのかもしれませんが、
相手にとっては「ただの心的外傷」を負っただけと捕らえています。

あれから38年が経ちましたが未だに私には「カタルシス」は
訪れません。学校には思った以上に無能な人間が多く勤務しています。
私は、こう考えています。それは「均衡」です。
上下関係では「送る側」と「受ける側」が存在することを避けられません。
しかし単に年齢の差があるだけの「人間同士」だと思えば、
全てにおいて、その関係は「均衡」が取れていなければなりません。
憲法で人の平等は守られています。
従って、均衡の取れない関係を強いる事は「犯罪」なのです。
犯罪だと理解して教員は生徒に「指導」」とかっていうものを
行っているのでしょうか。
そうでは無いでしょう。

ですから冒頭に書いたように「感情」という個人的な衝動で、
道徳を恣意的に強要しているに過ぎないということを真剣に
噛締めて欲しいと強く願うのです。自分が間違っていることを
認めない限り、真の師弟関係など構築できる訳がありません。

自分の背中を自分の目で見る事は一生出来ません。
行いを指摘するのは他人でも、行いを正すのは「自分」です。
冷静に考えて欲しいと願っています。

私は子供に直接、私は「どうするべきか」尋ねました。
実に均衡の取れた会話で互いの信頼関係を築くことが出来ました。
親子だからではありません。
人間同士の信頼関係に基づいているからです。  

Posted by アーバンギア at 21:53Comments(0)子育て

2016年06月26日

seeds of love

暑い!!暑かったっ!!

今朝は久しぶりに「寝坊」を許しました。自分に。
アルコールを断って、ノンアルコールビールにしたせいで、
翌朝「むくむ」こと浮腫むこと。だるだるな感じで日曜日は
スタートです。昨日は、ずっと下を向いて事務仕事だったので、
もう首がヘルニアのように痛くてですね。

寝坊と言っても、まぁ7:00には布団から出ましたけどね。
次男を下界まで送って、帰りに買い物をして帰宅です。
ずっとやろうと思っていた「畑」に手をつけることが出来たんですよ!
「家内」と「次女」が手伝ってくれました。私は家の周りの草刈から
始めて、その間に家内と娘は「鍬」で耕してくれました。
愉快でしたね。
家内は人生「初」じゃないでしょうかね。文句も言わずに黙々と
一生懸命に鍬を振っている姿は着飾った時の数百倍、魅力的に
見えましたよ。ホントに。

娘は途中で離脱。私が草刈を終えて本格的に「うね」作りを
初めても家内は一緒に手伝いました。もう手伝いと言うより「共同作業」
でしたね。私は2度ほど立ちくらみで倒れましたが、家内の頑張りの
御蔭で何とか小さな小さな畑が出来ました。
今日は「エゴマ」と「バジル」の種を蒔きました。一番日当たりの良い、
うねにはリクエストに答えて「オクラ」の種を蒔くことにしました。
明日辺りに買って来ます。

手作業で畑を作ることは容易なことではありません。半端なく
大変です。これをすると作物に対する「ありがたみ」が半端ないです。
種を蒔くところまでやると、「発芽」が本当に楽しみで、毎日まだか、
まだかと「地面」を見るようになります。
そして最初の「双葉」を見つけると、随分と上等な笑顔に大概の人は
なりますね。収穫して、それをすぐさま料理に使うと、美しく盛り付け
られた料理が本当に輝いて見えるものです。

私は家内に、それを教えてあげたかったんです。
今日は黙って「進んで」表に出てきてくれました。
結婚して丁度20年です。考えてみれば今の生活は何も無かった。
一緒になって「ゼロ」からのスタートでした。最初からマイナスのスタート
でしたが、あったものが無くなるより、考えてみれば何だか、そっちの
方が気が楽だったと今は思いますね。

家内と二人で、ずっと耕し続けてきました。小さな種をずっと蒔き続けて
きたのだと、最近になって思うようになりました。計画は大切ですが、
あまりにも壮大な計画では、ため息が出て、しり込みしてしまう可能性も
あったりします。20年経って振り返ってみると、もうスタートした時の
ことは実感としては思い出せません。遠い思い出のようです。
それでも、あの時「種」を蒔かなければ「今」はありません。
今があるという事は確かに耕し、種を蒔いた証拠です。

バジルの芽が出るのが楽しみです。
家内は私が作る、スパゲティジェノベーゼが大好物なのです。


  

Posted by アーバンギア at 20:40Comments(1)あれこれ

2016年06月25日

幸せを探すとき

みなさん、休日は、どうやって過ごすんですか?

今日は事務仕事でした。
一番嫌いな「作業」ですね。私からすれば仕事じゃ
ないですね。建築家ですから。

話は変わりますが「宝くじ」に当たったら良いのに
とかって思ったことありますよね?
100パーセントだと思うのですが、そう思わない人は
成人でいるんでしょうか、会ってみたいです。
情報が欲しいですね(笑)
どんなにお金持ちでも思いませんかね。一攫千金って
いうより、濡れ手に粟というか、こう蓋然性に勝つって
いうかね、そういう博打みたいなものに勝つって、
自分が「ついてる」って思えるじゃないですか。

「ついてる」イコール「幸せ」だっていうね。
今日は、ふと「四葉のクローバー」見つけたいなって
思いましてね。ここのところ気になってたんですよ、
四葉のクローバー。
友人がFacebookに沢山あったよ!な記事をアップしていた
のを見たっていうのもあったんですが。
うちにも沢山あった時期がありましてね。
畑にしてしまってから、あまり見かけなくなってね。

自分の「幸せ度合い」を確かめたかったんですよね、多分。
外に出て「かがんで」探してみるも全然見当たらない。
そのうち腰と膝が痛くなってきたので、しゃがんで
見てみるとですね。クローバーの間に「イタリアンパセリ」が
出てるんですよ!嬉しかったですね~
去年のやつの種が落ちたんでしょうね。
今年もバジルとエゴマとイタリアンパセリの種を蒔こうと
思っていたのですが、近隣のホームセンターで売っていなくて。

よくよく見ると結構出ていたりして。一掴み摘んで、
ぺペロンチーノでも作ろうかと、気分が高揚しました。
もう酒断ちをしてから2週間以上ですかね。白ワインを
飲んでみようかな、なんて思ったりして。
幸せ気分を味わえましたよ。

もう3年以上前ですけど、友人の女性に言った言葉があるんです。
その方は、たまたま犬の散歩に出かけると、クローバーが
沢山あったので、暫く探すも、たったの1本も見つからなかったと。
自分は幸せを見つけるのが下手クソだと、しょんぼりしていたんです。
私は娘と一緒に30センチのタッパーにぎっしりと四葉のクローバーを
摘んで入れて、その方に送ってあげたのです。
食べるためじゃありません(笑)

その時に、四葉のクローバーを探すコツを手紙に書いておきました。
「絶対に、ここにあるって思って探すこと」
「幸せは、直ぐそばにある」

久しぶりに今日、その言葉を思い出しました。
実は、半ばっていうか、もう完璧に無いんだと諦めて、
パセリを摘んでいる時に、その言葉を思い出したんです。
テーブルにパセリを置いて、もう一度しゃがみこんで、今度は、
「よし!ここに絶対に在る!!」そう思い込んで、じっと
目を凝らすと...
ありました、目の前にありました。摘まずに、そのままに
しておきました。不思議なものです、ちょっと目を離すと、もう
どこに行ったのか分からなくなるのです。

あの時は、さも偉そうに人に言っていた自分が恥ずかしくなりました。
遠くから眺めていたのでは、幸せは見つかりません。
近づいて目を凝らしてみなければ。
そして一番大切な事は「絶対にそこにある」と信じることですね。
幸せになる「コツ」は、絶対に幸せになると思うことです。
人が幸せになるのは「可能性」で語るべきでしょうか、それとも
「蓋然性」で測るものでしょうか。
生き方によっては、0%から100%まで段階があるようにも感じます。
しかし私は、幸せになれるかどうかについては「蓋然性」の方が
相応しいと思うのです。

どれだけ幸せを望んでも、想像するだけでは幸せには、なれないと
思うのです。幸せを見つける努力が必要です。
努力しないものが幸せになる蓋然性は酷く低いのです。

私は「いわゆる」幸せになりたいです。
だって、折角、生まれてきたんですから。


  

Posted by アーバンギア at 20:55Comments(0)あれこれ

2016年06月24日

iphone

今日、事務の書棚を漁っていたら、もう使えなくなった
iPhoneが出てきた。初代のものだ。驚いた。そのサイズに。

ずっと「でっかい電話」だと思っていたのだ。
この電話を手に入れたのは7年くらい前だ。
アメリカで発売されたのをまさに「垂涎」の眼差しで
見ていたのを思い出す。
それが大分遅れて日本でも発売になった。それもSoftBankから。
速攻で購入した。あちこち探し回って、やっと手に入れた。

ところが、山に越してみるとSoftBankの電波は入らない。
泣く泣くDocomoのXperiaに乗り換える。
暫くするとiPhoneも電源が入らなくなって故障した。
しかし私は電話を機能で買ったことがない。全て「デザイン」で
購入している。使わなくなった携帯も、これを含めて2機種、
3台所持している。惚れ込んだiPhoneであったが、それまで
使っていた、いわゆる「ガラケー」からすると何だか
「だんびろ」で大きくなったような気がしたのだ。

今使っているスマホも3年以上になる。LGのOptimus L-01E。
これは画面が大きくて買った。処理能力も高いはずだった。
どうやら、ただの電池食い、データも流行の「偽装」では
なかったのかと思うほど「のろい」。電卓のような、
野暮ったいデザインだ。
これに使い慣れていたので、久々に見たiPhoneが実に
スタイリッシュに見えたのだ。
電話や家電というよりは「文房具」に近いような気がする。
万年筆のようだ。

今日、たまたま素敵な言葉に出会った。
偶然にもiPhoneを世に送り出した故人の言葉だった。
少し運命のようなものを感じた。そんな訳で今日は、こんな
記事を綴っている次第だ。

私の友人の数名は、今日、この言葉を飲み込むだろう。
私も強く共感する。
馴染まないものもいる。
それで良いと思う。


Being the richest man in the cemetery doesn’t matter to me…
Going to bed at night saying we’ve done something wonderful…
that’s what matters to me.

墓場で一番の金持ちになることは私には重要ではない。
夜眠るとき、我々は素晴らしいことをしたと言えること、
それが重要だ。

-スティーヴ・ジョブズ


  

Posted by アーバンギア at 22:26Comments(0)あれこれ

2016年06月22日

レストランを設計する

それでは昨日の続きです。

まぁ設計と言っても構造でなくて「計画」について、
軽く、かる~く触れてみましょうかね。
このブログは建築士に向けて書いている訳でもないので、
専門的なことをツラツラ書いても面白くもなんともない
でしょうからね。ただ、これからお店を持ちたいなどと
考えている方も潜在的に大勢いて、このブログに訪問して
頂いているかもしれませんからね。

レストランは、まず規模ですね。大小によって、計画に
相当な違いが出てきますよ。単純に「客席数」が気になり
ますよね、最初は。
ムードだとかってのを気にするかと言えば、ちょっと違って、
実際に「テナント」を探したりするオーナーさんは、この
広さで「何席」作れるかな?と最初に気にされます。
でも、これって大勢入れたいって発想ですよね。
つまり「沢山」儲けるには「客数」だと考えている方です。

当然大人数を相手に商売をする訳です、従業員が必要です。
個人経営というか、オーナーシェフに、その奥様やご家族
程度で経営される小さなお店では、レストランのように
「短時間集中型」の営業では大した客数に提供する事は
出来ません。限界があります。
つまりよく言う「客単価」が極端に低ければ経営が
成り立たないということになります。必然的に高級志向に
なっていきますかね。

※サムネイルクリックで拡大します。
http://urbangeardesign.com/works/lightbox/kannawaen.html

レストランも和洋中で計画が結構変わってきます。
和食を大人数で食べるという発想は「宴会」や「慶弔時」に
限られるといっても過言ではありません。
和食はカウンターや少人数の個室が好まれる傾向が強くなって
来ています。一般的な蕎麦屋や食事処のような店舗は老舗で
あっても、中々経営が大変になってきています。
逆に宴会や慶弔時をメインに営業している店は、永久に
それらが無くならないという特徴で経営は安定していますね。

イタリアンもパスタとピザが主力の店とアンチパストも
充実させた本格イタリアンでは「厨房」の設計が全く違います。
そこへいくとフレンチは客数に左右されないで(もちろん
ホテルクラスは除く)非常に厨房の面積が広く必要になります。
小さなテナントで経営されている店の特徴として、メニューが
少ないという傾向にあります。これはランチを主体とし、
ディナーは「予約」でこなすという形態でカバーしているという
ケースが多いように思います。

中華料理は本格的なレストランであれば、少人数でという発想は
恐らくない方が多いでしょう。仕込みに時間が掛かりますが、
調理時間は、あっという間という特徴を生かして、短時間に
ガッツリ稼いでしまおうという考えの方が多いと感じます。
どうしても厨房の人数は多くなり、やはりバックヤードの面積は
大きくなる傾向にあります。
まぁそれでも和洋中とも「大小さまざま」存在しています。

人数というよりも「単位」が重要です。つまり「二人連れ」なのか、
「四人連れ」なのか「団体」なのかってことですね。
常に団体を意識している経営と「カップル程度」を主に意識した
場合では店舗のつくりは全く変わってきます。
全てのケースに対応できるようにするのが理想なのでしょうけれど、
面白いことに、団体客は、カップルが多い店を嫌い、カップル客は
団体や大人数がいる店を敬遠します。
つまり、ホテルなど「仕方ない」場合を除き、仮に計画的に総合的な
座席配置が可能になっても、経営的には思ったほど、嫌、下手を
すれば失敗する可能性すら持っている「無駄な計画」だと私は
考えています。

※本気で店舗を考えている失敗したくない方への提案
http://urbangeardesign.com/works/lightbox/kannawaen.html

さて話を進めます。
座席の次にオーナーシェフは「厨房」を気にします。ちゃんと
提供可能な調理が出来る面積を確保できるかですね。これは重要です。
私の経験からすると、調理をする人でも「客席面積」を優先させる
傾向が強いです。やはり客が入らないと儲からないと妄信的に
なっていると感じます。
また私が計画を検討しているときは内装や外観についても検討している
状態な訳ですから、そこが「最も大切」な訳ですからね、デザイナーに
とっては。デザインだけでなく、経営についても検討しながら
客席数を決定して行きます。洞察力がないとレストランの設計は
出来ないですね。絶対に。ちょっと威張ってます(笑)

ちなみに私が苦労するのは「トイレ」と「クローク」です。
まぁ漠然とオーナーさんは気にしていますが、これらが実際には
結構な面積を取り、且つ「ムードに影響する」ことを知りません。
客席から便所が丸見えでは、どんなに内装に凝っても台無しです。
また食事している目の前でレジが、チーン!と開き、お勘定をされた
のでは、これも興ざめです。難しい...

つまり実施を検討していると、それらの位置関係と、利用者が
移動するときの通路の幅、そこを通られても気にならない程度の幅が
物凄く重要になるのです。ソシオペタルという言葉があります。
これは向かい合った状態、つまり「親密な」関係を言うのですが、
少人数、つまりカップルや、せいぜいが4人組み程度の客を相手にした
場合、その関係が崩れてしまわないような「互いの距離感」と「空気感」を
保たせることが計画には欠かせないポイントになるのです。

正直「物件」を持ってこられてから考えるより、物件を一緒に探してから
設計やデザインをする方が何倍も楽です。
どうしてもオーナーさんは「立地」や「駐車スペース」、「家賃」から
入りますが、今時の集客方法は「表に立っている看板」では無理なのです。
従って、もちろん「地の利」は、ありますが、解決する方法も同時に
検討しながら「自分が求める空間づくり」をすることを私は、お勧めします。

ああ、便所とレジだけで、こんなに書いてしまった。
また面白い建築ネタを思いついたら書いてみますね!

※蕎麦屋から和ダイニングへの転換を計画しました。もう15年くらい経つなぁ...



※様々なご相談に丁寧にお答えします。
http://urbangeardesign.com/contents/profile.html  

Posted by アーバンギア at 17:49Comments(0)あれこれ建築

2016年06月21日

投資家

今日は無事にホテルのプランをクライアントに
提出できました。良かったです。

ここ数年、個人投資家が凄い勢いで増えていますよね。
これは、やはりFXなどのネットを利用した株や相場の
利用が簡単になって、またその成功者も増えていると
いうことなのでしょうか。
失敗する人口も大変な数なのでしょうが、儲かる人は、
少数でも、やはりその「利」は大きいと判断できます。

ビル・ゲイツほどのリッチマンにならずとも、もともと
使途が明確で設けようとした「お金」ではないので、
そのお金の使い道に贅沢な悩みを持っている方も結構な
数でいるのでしょう。
折角自由に使おうと思えば使える金です。
使い捨てのお金でなくて、「気が利いた投資」などを
してみたいと、欲も出るのでは無いでしょうか。
私も万が一、金持ちに成ったらレストランを持ってみた
いという夢がありますね。もっとお金持ちだったら、
やはり学校を作りたいですね。

直接的な利益が出なくても廻りまわって気持ちが良くなる
ような投資がしてみたいです。夢ですね。

今日は短めに済ませますが、折角「非住宅」の設計を
やったばかりなので、このような不特定多数の人が
利用する施設の「計画」などについて明日あたりブログの
ネタにしてみたいと思います。

お楽しみに!


  

Posted by アーバンギア at 22:52Comments(0)建築

2016年06月20日

レンダリング

久々CGでパース。
レンダリングに時間がかかり、PC使えず。

まぁそういう日でした。最悪だった。
多分人生で5本の指に入るくらい最悪だった。
一生忘れられない。
いつか笑い話に出来るのだろうか。  

Posted by アーバンギア at 23:00Comments(0)建築

2016年06月19日

どういうことか、今朝は大変な睡魔に襲われて、
我慢できずに寝てしまった。
娘たちが、マッサージをしてくれたお陰だ。
2時間以上寝たと思う。分からない。

起きてきて仕事をしようと部屋に入るとダンボール。
「届け物」なんて子供の字で書いてある。
大きなダンボールを開けると中には「まくら」が
入っていた。手紙も置いてあった。
「父の日」のプレゼントだ。

枕はカバーを手作りしてあった。私が寝ている間に
長女が裁縫してくれたのだろう。
手紙は三女からだった。きっと他の娘たちも何かを
手伝ったのだろう。
長男は台所仕事をやってくれた。

大して嬉しくない。
私は、そういう偏屈なのだ。
特別な事は必要ない。言われたことを出来るように
して欲しい。願いは、それだけだ。
まともに暮らしてくれれば、私は一気に報われ、
疲れも消えてなくなるだろう。

これだけしてくれても、娘たちをどやしつけた。
私は、そういう人間なのだ。
どれだけ「媚」られても間違っていることに妥協しない。
娘たちは、少しも落胆しない。
私が間違っていないことを承知しているからだ。
私に裏表が無いことで娘たちは酷く「安心」している。
信頼しているということだ。
他の一面など見つけようも無い。「父親」。

私は私だ。


  

Posted by アーバンギア at 20:39Comments(0)子育て

2016年06月18日

僕のこだわり

僕は拘りが強いのか弱いのか。
実は分かりません。
とてつもない知識の蓄えがありますが、
それらは図書館の書物のように整然と
脳のなかに並んでいる訳でもなく、
インデックスが付いている訳でもなく。

どうやって使っているのか
自覚は全くありませんが伝授している
「ほかのてを」考え中です。   

Posted by アーバンギア at 23:29Comments(0)あれこれ子育て

2016年06月17日

亡骸

子猫が死にました。

まだ生まれて半年の猫が子を産みました。
まったくまともに子育てしません。
乳をあげないんです。
その母猫、つまりお婆ちゃん猫が乳を
与えて可愛がっていました。
この猫も子を取り上げられて乳が張って
仕方なかったのです。
しかもこの猫は大変な子煩悩というか、
とにかく優しくて子供思いです。

私は、ノータッチでした。
ちょっと前から体が冷たいなどの異常が
あったようなのですが、娘たちは私に
「話」をしません。
最近では、まともな会話は無いのです。
もっと早くに私が知っていれば命を落とす
事は無かったでしょう。
しかし子猫は死にました。

子供たちに話しました。
私に相談していれば死ななかったであろうと。
なぜ死んだのか。それは「無知」だからだと
言いました。命を軽く見てはいけないと。
猫も人も簡単に死ぬと教えました。
お前たちは、パパとママで手厚く育てられたから
今こうして生きているんだと言いました。
偶然や奇蹟では無いと言いました。
一生懸命に育てたからだと言いました。

子猫は大変に短い一生でしたが、子供たちに
大切なものを教えていきました。
私は言いました。
パパの言うことをしっかりと聞いて
「覚える」んだと。覚えて自分の生活に、
しかりと生かすんだと言いました。
丁寧に聞いて、決して馬鹿にすることなく、
自分のものにするようにと伝えました。

そうすれば子猫は死なない。もう二度と子猫が
死んだりすることはないと言いました。
ご飯をこぼすこともない。
忘れ物もしない。いちいちリコーダーを
探すこともなくなると言いました。
だれかれ構わず喧嘩をすることもなくなると
言いました。分かってくれました。

誰かが死なないと分からないのでしょうか。
悲しいですし悔しいです。
死ぬほどの辛さを受けなければ変われないのでしょうか。
実に空しいと感じました。実に。


  

Posted by アーバンギア at 19:10Comments(0)あれこれ子育て

2016年06月16日

瑶歌11歳

遅ればせながら三女が11歳の誕生日を迎えました。

祝ってあげられて良かったです。
本当に。


  

Posted by アーバンギア at 18:27Comments(2)子育て

2016年06月11日

夏を感じる

直に夏至がやってきます。

一年で一番、昼間が長い日。今年は6月21日です。
夏に至る。実際には日本では、これからが夏。
6月は梅雨時。この、うっとおしい季節も夏なんだと
思うと、季節の只中にいると思えてきます。

長男を除く家族は下界にいます。
高校生たちは文化祭。娘たちは海にいたようです。
結局、海に全身で浸かる始末。
多少歳をとりましたが、
結局のところ「三つ子の魂百までも」ってことですか。
元気が良くてよろしいです。

私は、ひとりで「冷おろし蕎麦」を食べました。
少し茹で過ぎたので息子にも声を掛けると食べると。
18時に食べるために午前中の10時頃から仕込みました。
早く言えば「簡単めんつゆ」を切らしていたので、
つゆを作るところから始めたと。
本当は昼飯に「そうめん」を食わせようと始めたのですが、
みんな「いらない」と言い、出て行ってしまいました。

昔は、簡単めんつゆなんて無かったです。
母が、良く出汁を取って、つゆを作っていました。
私は母が作る麺つゆが好きじゃなかったですね。
甘みが全く無いんですよ。だから、そうめんも好きじゃ
なかった。でも外で食べる蕎麦や素麺が美味くて。
自分で作るようになってから家でも素麺や蕎麦を食べる
機会が増えましたかね。

久しぶりに出汁を取って、ざらめを入れて汁を作って、
荒熱を取って冷蔵庫にしまうまでをやってみると、
実に「面倒」な作業だと思いましたね。素麺も蕎麦も
食べるのは「一瞬」ですよね。
これで、麺打ちまでやってたら、もう食べるの止めて
「飾り」ますね(笑)
日本食ってのは、高級な材料を多く使うってのは稀な
レシピですよね。基本的には「手間」を掛ける。

ヒエラルキーが生んだ特徴だと言えますね。
特権階級は人口の極々一部ですから、庶民というより
「その他」の人間が文化を作ってきたと言って良いでしょう。

今日は「ロンボク島」のヴィラの設計をやってました。
南緯8度33分54秒。
赤道ですよね、殆ど。熱いんだろうなぁ。
どんな感じの「常夏」を感じるんだろうと想像してみるも、
全く想像できなくて。

インドネシアに日本軍が侵攻したのは「まだ冬」の頃。
日本兵たちは常夏の島を「どんな風に」感じたのだろう。
美しい島は静けさを失った。

暑ければ水遊びに行水。素麺に、かき氷。
蚊帳を吊って怪談を聴く。
ヒエラルキーの底辺にいる我々は創意工夫で無理をせず、
「一時の季節」を楽しみながら乗り切った。
それぞれに夏がやってくる。
季節の変わり目に「なぜか」苦しむ人たちも多くいる。
私は思う。

面倒を嫌わない幸せ。
便利でなくなる事は「多くを失う」のか。そうではない。
しまう「スペース」を作るのだ。
そんなに沢山抱え込んで、忙しく生きたのでは、もうこれ以上
身動きが出来なくなってしまうのではないだろうか。

梅雨空とは程遠い、ペールブルーの空を眺めながら、
この空は、ロンボク島どころか宇宙の遥か彼方まで繋がって
いるんだなと想いを馳せるのでした。




  

Posted by アーバンギア at 18:49Comments(2)あれこれ

2016年06月10日

何が出来る

集中力を欠いてしまった土曜。

なにも進展しなかった。何も出来なかった。

時間を無駄にしないように生きた方が良いの
だろうが、さて無駄な時間とは「何だ」?
目的や目標が恐ろしく「明確」で、その目的や
目標のために「何を」成すべきかが恐ろしく
「明確」な場合、初めて「無駄」な行為と、
それに費やす「時間」について「無駄」だと
言い切れる訳である。

そんな訳で、大した意義も感じずに生きている
私であるからして、さて「無駄な時間」などという
高尚なものが、そもそも存在しているのかと。

まぁ仕事しろ!って話なんであろうが。
仕事ねぇ...
仕事。

仕事したいね、仕事をさ。  

Posted by アーバンギア at 20:01Comments(2)あれこれ

2016年06月09日

醜態

みっともない典型ってのがある。

「自分自慢」と「悪口」だ。
それも「昔話」と「同和」だったら最悪だ。

大概、それをやってる人間は「傷ついた」
人間だったりする。
「哀れ」な人が多い。
自分でも分かっているんじゃないだろうか。
自分が低俗で取るに足らない人間だということを。
でも抑えられないんだろうな。

誰かを非難して自分を正当化?立派な人間だと
「錯覚」させるしか生きる術が無くなって
しまった人たち。

さぞ、生きることが辛いんだろうなと、
遠くを見ながら想像してみる。  

Posted by アーバンギア at 18:26Comments(0)あれこれ

2016年06月07日

みんな偏頭痛

次男坊も酷い偏頭痛です。
長女は本日、精密検査を受けました。

「遺伝」だと言われました(泣)

私は頭が痛いのは「皆同じ」だと思ってました。

目が不自由な人、耳が不自由な人。
みんな同じだと思っていたんでしょうね、最初。

ただ、それが、どれくらい「快適」なのかは、
今生では知る良しも無いのです。
憧れです。健常者。  

Posted by アーバンギア at 21:59Comments(0)子育て

2016年06月06日

心霊現象 緑風荘

お化けっていると思います?

実に緩~い感じの書き出し、久々な気がします。
疲れ切っています。
手、腕の痺れ、切れ目の無い偏頭痛、焦燥感、
完全な「うつ症状」ですな。結構厳しい割りに、
実は気分が悪くありません。
これは「そう」状態ならではでございます。
興奮しているって程ではないのですが、やばいんです。

例えば、車の「バック」です。
後ろや周りを、よーくよくよく見ながらバック
するんですよ、私は。
それが「面倒」になるんです。「あーあー下がっちまえ」
的な?もう何もかも「乱暴」になるんです。
重篤な、うつ病患者は、この時点で「死んじまえ」とか
「殺しちまえ」となるんですよ。
大概「自殺」しちゃいます。もう、どーでも
良くなっちゃう感じですね。

さあ、千秋楽、角番の「入梅」でございますよ!!
みんなで励ましあって、ひとつでも尊い命を
来シーズンに持ち越したいですね。

唐突では、ございますが。
緑風荘って旅館をご存知でしょうか。
知る人ぞ知る「座敷わらし」が出るということで有名な
東北の旅館なんでございます。
Youtubeで、いくらでもリアル動画を見ることが出来ます。
全部本物です。

って、書くと、超常現象を全く信じない方から凄まじい
クレームが飛んでくるんでしょうけど。
正直、緑風荘で起きたという「ポルターガイスト現象」は
我が家の場合、「ここで」体験済みなんでございます。

壁を叩く音、床を叩く音、そんなの家族、全員、聴いてます。
歩く音、泣いてる声を聴いた「子供」もいます。
黒い姿を見た子もいます。
触られた家族もいます。リアルに喋った声を聴いた子もいます。
扉が勝手に閉まったり開いたりしたり。
障子が、突然勝手に開いたり。
ギターが鳴ったり、ハーモニカが鳴ったり、オルゴールが鳴ったり。

心霊番組が取材に来ても「はずれ」が無さそうな家です。
最初は本気で怖かったです。
っていうか、もちろん今でも「怖っ!!」ってなりますよ、そりゃ。
でも何か「得した」気分にもなります。
「うちって特別ジャン!」みたいな?
お化けは、面白いですよね。だって実体が無いのに
「物理」現象を起こすことが出来るんですから。

アインシュタインと一緒に「お化け」の話をしたいですよ、ホント。
アインシュタインは、本気で「考えれば考えるほど神の存在無くして
物理は成り立たない」と言いました。摂理ですね。
お化けは、いない。じゃあ、あれは、何なんだ?!となりますね。
アインシュタインは相対性理論を打ち立てました。
皆知ってますが、量子力学について一般人が語る機会は少ないです。
量子力学は大変な功績を人類にもたらせますが、不完全な部分も
「当然」存在しています。
物理学者は、その仮説について完璧に解答しなければならないと
考えていたのが、アインシュタインだったと私は思っています。

時間は、掛かります。それで良いです。
結論でなくて「仮説」が良いです。
神は気まぐれでしょうか、それとも完璧でしょうか。
私は、どちらとも答えられません。
森羅万象が完璧に神の手によって、コントロールされているとしたら。
それが、その事実を自らが「受け入れる」ことが出来るのなら、
それに「身を委ねて」生きれば良いだけです。
実に無理がなく、心地よい人生を送ることが出来ます。

ですが、神の存在と、その偉業を信じることが出来ないのであれば、
「答え」を求めて一生を、もがき苦しみながら生きることになります。
多くの人は後者を選びます。
そして多くの人は真理を得られぬまま、長いようで短い一生を終えます。
では、なぜ後者を選ぶのでしょうか。
早く言えば、つまり「神などいない」という事です。
物理的な現象と存在こそが「全て」だと考えているからに他なりません。

日本だけに止まらず、世界中には宗教と信仰があります。
どこにいっても「墓」があります。墓の存在は不思議です。
それは「生きていた人」のため?それとも「死後の御霊」のため?
考えるに、どうも墓の存在は「生きていた人へのオマージュ」として
というのが大半では無いだろうかと私は考えているのです。
つまり墓を作って、墓前に手を合わせても、どうにも「その行為」は
とんちんかんな行為だと思えるのです。

墓を作るのは生きていた人を忘れたくないから。
手を合わせるのは「流儀」「儀礼」。
つまり、本来自分が受け入れられる物理的な終焉は「埋葬」までとなる。
墓に手を合わせるのは5月5日に鯉のぼりを揚げたり、1月7日に七草粥を
食べるのと全く変わらないのである。
それは宗教観とかっていう問題ではなく、単純に「死んだら終わり」と
考えているからである。
科学の勝利である。

だから怖い。
仮定は、証明されるべきベクトルを持っている。
しかし証明できない、覆されるとしたら。それは「否定」を肯定する
という、自己崩壊を受け入れるということなのだ。
だから、お化けは怖い。
お化けが怖いのではなくて、自己崩壊が怖いのだ。
目の前の人が扉の向こうに去っていく。再び扉から出てくる。
何の不思議も無い物理現象だ。
受け入れがたい要素など、何処にも無い。

人が死ぬ事は物理現象の終焉だ。しかし、生命というものを概念でしか
捕らえていない場合、この終焉が質量の変化を伴った単なる「移動」
だとは受け入れられないだろう。

チョコレートが好きな、やんちゃな、質量を伴わない「現象」は、
私には、可愛い子供に見える。
様々な心霊写真を見るたびに思う。
やった、いるんだ!大丈夫だ、死んでも「無くならない」!!
これは自分のことではない。久遠の母と父、祖父母、飼っていた猫や犬。
消滅など無い。
それを証明してくれたのが、アインシュタインだ。

全焼の憂き目に会いながらも緑風荘は再建した。
一番喜んでいるのは、誰あろう「座敷わらし」、その人であると
多くの人が考えているのでは無いだろうか。
それを理解し、もしも自然と賛同できるようになれば、この世は
随分と暮らしやすくなるような気がするのである。

  

Posted by アーバンギア at 18:13Comments(0)あれこれ

2016年06月05日

日曜日 全員集合

昨日は外でバーベーキューなどして遊びました。
私は飲みすぎて夕方には寝てしまいました。
娘たちと三男は家内の運転で下の部落のイベントに
出かけていきました。

帰りは10時過ぎ。外泊していた次男と一緒に帰って
きました。今日は日曜日。
雨です。
もう何ヶ月ぶりでしょうか、朝寝坊した日曜日は。
私は6時には起きてきて洗物したり、ご飯を炊いたり
しましたけどね。
誰も出かけないので、ゆっくりと「仕事」しました。

ドアの金物を5時間以上も探しています。
ありません。もう疲れました。
まぁなんとか付きそうなものを幾つかピックアップ
出来たので、あとは建具屋に任せます。
なんだか疲労困憊。偏頭痛も酷くて、薬を飲んで
寝ようかなとかも思うし。
家族が家にいる日曜って良いですね。本当に。

娘たち、レゴで遊んでます。良いですよね、レゴ。
携帯電話をガン見してる姿より断然良いですよ。

さっき天麩羅を揚げてやったら喜んで食べてました。
家内は、金ちゃんヌードルを食べていました。
まぁ良いですよ。
何か食べる?って聞かれましたが、いらないと言いました。
現時点で、コーヒーの1杯も出てくる「気配」すらありません。
まぁ良いですよ。それが日常ですから。

みんなが家にいるし。
迎えに下りるって心配も要りませんから。
良い休日です。




  

Posted by アーバンギア at 16:59Comments(5)あれこれ子育て