2021年07月31日

設計

随分と仕事の投稿もしていなかったですね。


それどころか、もうすっかりブログを投稿しなくなりました。
「糸」が切れてしまったような感じです。っていうか、
感じだったな。テンションは、ピークを迎えてしまった。
もう何もかも限界だったのかもしれない。
私は全てを完璧にこなしたいと考える性格だ。
それが何より自分を苦しめる要因に成っているんだと、
気がついてはいたのだが、知らない振りをしてきたように
今となっては感じている。負けたくなかった。

理想とする自分に「なれない」ように感じたからだ。
結果的に、そのようになった。成れなかった。
っていうか、成れないものなのだ。人間は。
いくつかの出会いによって、その「抗い」は間違っても
いなくて、また普通の出来事なんだと、この年になって
やっと理解することが出来た。
受け入れることが出来たという感覚だ。
自分ひとりの「せい」だけで自分の人生が決まっている
訳では無いと、やっと知ることが出来た。
このような簡単なことに気がつくまでに、なんと時間が
掛かったことか。これも人生だ。

設計の仕事は切れ間無くやっていた。楽しい仕事と、
そうでない仕事って括りは無い。いずれの仕事も
「楽しい期間」と「地獄の期間」が存在する。
やはり詳細を詰めてゆくと、苦しくなってくる。
これは山の景色を遠くから眺めているのと同じだ。
山を登り始め、森に分け入って行くと、様々な困難に
出会う。知恵も辛抱も慎重さも必要だ。

ただ。
最近になって、よく思い出す言葉がある。友人のお父様が
友人に向けて言った言葉だ。
「終わらない仕事は無い」

その言葉を聞いたのは、もう20年は前のことだ。当時は
全くピント来なかった。だが最近になって何度か脳裏をよぎり、
娘に向って言ったのだ。
娘がAO受験のためのポートフォリオ製作に苦慮している
様子を見て、何を指導したらよいのか考えたときに頭に
浮かんできた。
誰でも「やったことが無い」ことを始めるのは億劫だし、
勇気もいる。分かっちゃいるけど、中々手が付けられない。
始めてみても、ひとつひとつに、つまづく。
根気が続かない。誰でもだ。

しかし長く生きてくれば、無駄に生きてこなければ、怠惰に
生きてこなければ、流されずに生きてくれば、誰もが知る
ことになる「終点の存在」。
始めたものは完成は無くても終わりが有る。
真っ白なケント紙に「たったの一本の線」が引かれ、やがて
無数の線は「面」を構成し、明と暗を生み出し、空間を表現して、
最後には作者の「想い」を伝えるに至る。

一度自分で出来たことは再度出来るという「確信」に変わる。
大切なことは「自分で」最後までやるということだ。
今週の水曜日に、やっと白模型を持って、請負先を訪問した。
クライアントも初めて見る白模型。製作に丸々2週間掛かった。
私は模型作りが苦手なのでクオリティは低い。
それは観賞用ではない。今回は「ギリギリ」を狙うことに
執着した。「平面計画」ではない。
多くの方、設計者を含めて「間取り」や「面積」について苦慮する
場合が殆どだと思う。誰も上下の方向、つまり「高さ」について
真剣に悩まない。天井高だ。漠然と「高い方が良い」という
話にならないほどの緊張感しか持たずに設計をやっている。

工事を請負う人間の殆どが「構造由来」の天井高さでしか
「空間」を考えていない。いや空間を考えていないのだ。
法律がクリアできている前提で、木造であれば3mか4mの
柱を使って組み立てる。間取りによって「梁せい」が決まるので、
その梁の下にMAX作れる高さを天井高にしてしまうという安直さ。
緊張感など有る筈が無い。

今回やっている住宅は「和洋折衷」「レトロ」がテーマだ。
実際には存在しない建築様式だ。まるで、ドラマや映画のセットの
ような、「不思議な」空間、佇まいを表現しようと思った。
もちろんクライアントの嗜好を十分に聞き取っての方向性だ。
大正時代、昭和の初期に「もしもお金持ちが洋風の家を建てたら」
というのがコンセプトだ。
写真も普及していない時代に、日本の大工、職人たちに
「西洋」の住宅を「口頭」で説明して出来上がったような空間。

私は、いくつかの本物の築100年越えの古民家を改修する機会に
恵まれた経験がある。また戦後間もなくの昭和の住宅に住んだり、
解体や改修に携わった経験にも恵まれた。
それらの断片的なディテールを「再構築する」という、修復作業とは
違った、いわば「新築リフォーム」のようなベクトルだ。
いくつかの古民家を訪ねたり洋館を訪ねた。
「小ささ」が「可愛らしさ」に繋がっていることは間違いなかった。
細くて華奢なものが「繊細で優雅」な空間を作っている。
しかし大きな造作によって威風堂々たる存在を表現していることも
間違いが無かった。この相反するようなモチーフを組み合わせることが
今回のデザイン、ディテールを成功させる重要な要素だと考えて
いたのだ。時間が掛かった。

土地が決まったのが2月。ぼちぼちエスキスを始めたのが3月。
最初の平面プランを提出したのが4月19日。基本設計図を送ったのが
7月8日。3ヶ月近く待たせた。申し訳ない(笑)
一言「難しかった」。
まだ見積もりは出ていない状態だ。ここからが勝負になる。
私の歩掛かりでは厳しいとなっている。

白模型を作っている時に、くじけそうになる。出来るのか?
本当に実施できるのか?毎度のことだ。
娘には自信を付けさせたいと、叱咤激励する私だ。
今の私にそれをしてくれるものはいない。ただ、目の前で黙々と
絵を描いている娘の姿を見ると、誰の言葉よりも重たい
波動のようなものが体を震わせる。
終点の存在は知っている。だが目の前の終点の手前で立ち止まって
しまう性分を、今生で直すことは出来るのだろうか。
それこそ一度きりの人生で、その答えを出すまでには私とて、
命の息吹が止むまで分からない。


  

Posted by アーバンギア at 10:20Comments(3)建築

2021年07月16日

その感情は妥当だろうか?

池袋で暴走事故を起こした被告に検察は禁錮7年を求刑した。


求刑しただけで決まった訳ではない。これから裁判だ。
さて、この「禁錮7年」という実刑について「軽すぎるだろ?!」
という世間の声が実に多いのに「私は」驚いた。

どうしてここまで「一人の年寄り」に執拗に改悛の情や反省を
求めるのだろうと正直、理解出来ない。
だって、ただの交通事故だ。被告が事故を起こした2019年の
交通事故の死者数は、3215人だ。大変な数だが、統計的に
カナリ少なくなっている。されど「3000人」以上の方が理不尽な
理由で突然この世から去っている。

この事故の中の「ひとつ」が池袋暴走事故だ。事件ではない。

被告は飲酒運転をしていない。故意に速度を上げて恣意的な
運転をしていた訳ではない。事故だ。
なのに世論は被告を「犯罪者」のような扱いをしている。
非常に違和感を覚える。

日本は法治国家だ。法が全てだ。基本的には。
誰かに大切な人を殺められても報復すれば、その途端に
自らが罪人に転じてしまう。個人が「復讐」することは許されない。
法が裁く。「量刑」に従ってだ。

被告が犯してしまった「過失」を裁くには現行の法律では「MAX」
禁錮7年だということだ。正直、検察は血も涙も無いなと私は
感じた。だって与えられる「辛さ」のマックスを求めたのだから。
7年どころか10年も20年も放り込め!!なんだったら死刑にしろ!!
と、ほざいている「狂人」は、自分に「知性」が欠けているとは
思わないのだろうか。

滅茶苦茶な報復を声高に言っている人は、ドテルテ大統領と
1ミリも変わらない。そんな憐憫の情も存在しない「過ち」を
許容出来ないような暮らし、生活、「国」にしたいのだろうかと、
しみじみと考えてしまう。
人は間違う。間違うから人間だ。人間のマニュアルを作成しようと
思えば必ず記載しなければならない項目だ。
「人間は間違う」

重ねて言えば「人間は能力が低い」だ。

爺さんは、やっちまった。死ななくて良い人を殺してしまった。
お前さえいなけりゃ、俺の家庭は幸せだったんだ。
御主人は、そう思って良い資格を持っている。ずっと苦しむだろう。
それは大切な家族を交通事故という理不尽な理由で奪われた人
だけではないのだ。

不倫は禁固刑にはならない。
「不倫相手」が、いなければ離婚には至らない。子供も「愛する対象」も
失わずに済むのだ。死別と何が違うのだろう。
死んだら二度と会えないからか?離婚をして連れ去られても
二度と会えない人もいるだろう。私は死んだ人の「もしかしたら」
について、考えてあげる必要は有ると思うが、家族を送り出した
残された遺族の感情に寄り添い「報復」に執拗に拘るのは
反社会的であり、未熟な国家の様相を呈していると強く思っている。
カリギュラのローマと同じだ。

被告は確かに事故を回避する選択が出来た。
では、あなたはどうだ?
あなたが失敗した出来事を冷静に考えるに「ああしておけば良かった」
と、思わないことが無いとは言わせない。
人に迷惑をかけたのだ。謝罪と償いは必要だ。なぜ?
それは、突き詰めれば「人としての生業」だ。ここで暮らしていたかったら、
慣わしに従えということだ。

自分は悪くないと思い込んでいる脳に障害がある老人に、
常識と法律と「心」を説いたところで仕方が無いのだ。
冗談ではない。
正常だと「思い込んでいる」目を吊り上げたマジョリティたちは、
冷静に自分たちが作り上げたシステマチックな社会に習わなければ
いけない。そうでなければ自滅だろう。
つまらない「言葉」をネットで垂れ流すのは止めた方が良い。

そういうことを平気で言っている連中は自分は誰にも注視されていない、
個人的に関わりを持つことは無いと「高をくくっている」からこそ
出来る、言える「戯言」なのだ。社会を動かす?ふざけるな!!
根拠も覚悟も無い「ただの感情」ではないか。すっこんでいろっ!!

大変にお気の毒な残されたご主人。お気持ちを察するにやり場の無い
怒りや悲しみは「被告を断罪する」ことでは決して癒されないと
ご想像します。止めろといっても無理でしょう。散々恨んで責めたら良い。
相手がいます。生きています。ずっと悪態をついて、人を恨んだら良い。
その先に待っているのは、ただの地獄です。
一日も早く、一時も早く、ご主人に平穏な日々が訪れますように。
人の暮らしは一様には参りませぬ。  

Posted by アーバンギア at 16:49Comments(0)あれこれ

2021年07月08日

どこでもない。どこにもない。

誰にも分かりゃしない。何も分かりゃしない。


雨が降っている。ずっとだ。止めてくれと叫んでも叶わない。
叫ぶのは気違いだけだ。だって誰も聞いている訳ないと、
誰でも思っているから。でものその誰もが信じていない、
その「誰か」がいると信じている気違いがいる。
その人たちは信者ともいう。

神様に祈らずには、いられない。お願いです、どうか青空を
見せてください。これ以上、お前を苦しめないと言ってくださいと
何度も何度も、何処に向いて言ったら良いのか分からずに
祈り続ける。
そうだ、お前らには決して分からない。ずっと蔑むといい。
別に気にはならないのだ。聴こえなくすれば良いのだから。

毎年毎年、試される。
お前が生まれ出でたことは様々な災いを起こす切欠となったと、
何度も囁かれる。もう分かった。
だから、朝早く起きて空を見る。まだ試練を与えてくださっている。
自分の素養だけを信じて一日を始める。
同じことの繰り返しだ。
それでも。身近なものに何かを与えようと努力する。
鳥のさえずりにも気持ちを見出そうと考えてみる。
どこかの誰かの気持ちを考えてみる。

力に似た、生きる理由が生まれ出る。不思議だ。
誰かの気持ちを慮る。自分を近づける。それだけで、生かせて
もらえるという気になる。意味だ。
生きている意味は実にシンプルだ。利己的な人間に福音は
訪れない。気の毒だ。
私は別段、生に執着していない。いつ死んでも構わない。
決められた時間がやってきただけだ。
生きることに抗うのは生きることを困難にする最もな要因だ。
生き易く生きたい。

子供たちも、その子供たちに関わる精霊も全て救いたい。
私は救いの為に生まれてきたと信じたい。
お荷物にだけはなりたくないのだ。  

Posted by アーバンギア at 18:02Comments(2)あれこれ