2016年04月30日
ケシノミ
昨日は、おばけの森でイベントでした。
朝早くに集まって、山に「イロハモミジ」「ケヤキ」
「ヤマザクラ」を植えました。
そのあと皆でカレーを作って食べ、森の中で遊びました。
天気は時折雨だったり、日が差したりの「いかにも」
山の天気という一日でした。正直寒かったですね。
用事があって家に帰るとデスクの上にダンボールが
置いてありました。宅急便で届いたものです。
差出人を確認するまでもなく、それが滋賀のクライアント
からのものだと、直感しました。
前日に「パン」を送ったとラインが届いていたので。
送り状を確認すると、やはりそうでした。
ガムテープを剥がして中身を確認すると4つ5つのパンが
ありそうでした。「よし!森に持っていこう!!」
私は、それがカレーを食べた後でも「ちょうど良い」
数であると直感しました。
なぜなら、数は多かったのですが、それらのパンたちは、
決して重なる事無く、十分な高さを持った大きすぎる
ダンボールに入れられていたからです。
パンは固すぎず柔らか過ぎず「粉」と「トッピング」の
香りや触感が十分に感じられるものだと想像したからです。
また、そういったパンを拘って作っている人だと知っていた
からでもありました。
中には、かっちかちのパンもありました。
全く妥協の無い硬さでした。私は気に入りました。
娘も美味い美味いといって半分近く一人で食べました。
そして一番評判も良く、私自身も一番気に入ったパンは
最後に食したパンでした。
何とも言えない上品な甘さで、もう少し、もう少しという
感じで手を伸ばしてしまうのです。
そのパンの上には何やら「実」が、まぶしてありました。
白ゴマよりも、ずっと小さな粒です。
香りは微妙ですが触感が溜まりません。
時々「あんぱん」なんかにまぶしてあったりする「あれ」です。
私は「えごま」かとも思いましたが、その正体は「けしの実」
でした。
今日になって、私の友人が「春菊」が沢山採れたからと
言って、わざわざ届けてくれたのです。
せっかく来たのだから上がってお茶でも飲んでいってくれと
私が誘いました。
私が「そうそう、昨日の、あの実、あれやっぱケシノミ」
だってさ」と友人に言うと
「ああ、あれね、やっぱそうでしょ」と。
すると友人は「ケシノミっていうと釈迦の話があってね」と
釈迦にまつわる逸話を教えてくれました。
私も普段、偉そうに知識をひけらかして悦に入っている訳で
ございますが、まだまだ知らないことも多く。
その話は聞いたことがありませんでした。
その話とは、わが子を亡くした母親が、わが子の死を受け入れ
られずに、釈迦に何とか子供を生き返らせてくれと難題を
吹っかけたという話でした。
釈迦は、一切動じないで、その母親に「それでは、家から
ただの一人も死人を出した事のない家から芥子の実を貰って
くるようにと」母親に言ったそうです。釈迦は、その実で薬を
作って、子供を生き返らせてあげると伝えたそうです。
母親は必死になって、「死人を出したことの無い家」を
探し回ったのですが、当然そのような家などあるはずもないのでした。
母親は、失意の中、釈迦の意向に気がつくのです。
この世に生きる人々が大切な人を失って、それでもなお
強く生きていることを。自分だけが悲しみの中にいる訳では
ないことを十分に納得するのでした。
釈迦は「この世に生を受けしものは、そのものにしか果たせない
役割を持って生まれてくる、死んだ子も、お前を仏の道に
導いた」と諭したと言います。
この話をされる方は大概「大事な」ポイントである「ケシノミ」
について触れていません。
私は、「なぜ芥子の実」なんだろうと最初に思いました。
貰ってくるものは何でも良かっただろうに。
実は、当時のインドでは「芥子の実」は、何処の家庭にでもある、
極々当たり前の「食材」というか「調味料」だったのです。
今で言う「胡椒」だとか「醤油」みたいなものです。
つまり「簡単に手に入る」ものが「簡単に手に入らないもの」に
化けるところが「みそ」なのです。
「簡単に手に入らない理由」が付いてしまえば、「あっても無い」
ことと同等になってしまいます。
実は、そういった「もの」や「思想」は、この世に溢れかえっています。
似ているものに「矛盾」があります。「たて」と「ほこ」です。
「こだわり」と「ないものねだり」は似ているのかもしれません。
今日も設計を少しだけしました。
友人との会話は大変に貴重だったと今、思い出しています。
森の中で食べた1斤のパンが、色々と考えさせてくれました。
仕事の手を休めて、一日森にいたこと。急いている休日に
手を休めて話に花を咲かせたこと。
見渡すゆとりが無ければ、ひとつも手に入ることが無かったでしょう。
ゆっくり生きる事は、とても大切なことなのです。

朝早くに集まって、山に「イロハモミジ」「ケヤキ」
「ヤマザクラ」を植えました。
そのあと皆でカレーを作って食べ、森の中で遊びました。
天気は時折雨だったり、日が差したりの「いかにも」
山の天気という一日でした。正直寒かったですね。
用事があって家に帰るとデスクの上にダンボールが
置いてありました。宅急便で届いたものです。
差出人を確認するまでもなく、それが滋賀のクライアント
からのものだと、直感しました。
前日に「パン」を送ったとラインが届いていたので。
送り状を確認すると、やはりそうでした。
ガムテープを剥がして中身を確認すると4つ5つのパンが
ありそうでした。「よし!森に持っていこう!!」
私は、それがカレーを食べた後でも「ちょうど良い」
数であると直感しました。
なぜなら、数は多かったのですが、それらのパンたちは、
決して重なる事無く、十分な高さを持った大きすぎる
ダンボールに入れられていたからです。
パンは固すぎず柔らか過ぎず「粉」と「トッピング」の
香りや触感が十分に感じられるものだと想像したからです。
また、そういったパンを拘って作っている人だと知っていた
からでもありました。
中には、かっちかちのパンもありました。
全く妥協の無い硬さでした。私は気に入りました。
娘も美味い美味いといって半分近く一人で食べました。
そして一番評判も良く、私自身も一番気に入ったパンは
最後に食したパンでした。
何とも言えない上品な甘さで、もう少し、もう少しという
感じで手を伸ばしてしまうのです。
そのパンの上には何やら「実」が、まぶしてありました。
白ゴマよりも、ずっと小さな粒です。
香りは微妙ですが触感が溜まりません。
時々「あんぱん」なんかにまぶしてあったりする「あれ」です。
私は「えごま」かとも思いましたが、その正体は「けしの実」
でした。
今日になって、私の友人が「春菊」が沢山採れたからと
言って、わざわざ届けてくれたのです。
せっかく来たのだから上がってお茶でも飲んでいってくれと
私が誘いました。
私が「そうそう、昨日の、あの実、あれやっぱケシノミ」
だってさ」と友人に言うと
「ああ、あれね、やっぱそうでしょ」と。
すると友人は「ケシノミっていうと釈迦の話があってね」と
釈迦にまつわる逸話を教えてくれました。
私も普段、偉そうに知識をひけらかして悦に入っている訳で
ございますが、まだまだ知らないことも多く。
その話は聞いたことがありませんでした。
その話とは、わが子を亡くした母親が、わが子の死を受け入れ
られずに、釈迦に何とか子供を生き返らせてくれと難題を
吹っかけたという話でした。
釈迦は、一切動じないで、その母親に「それでは、家から
ただの一人も死人を出した事のない家から芥子の実を貰って
くるようにと」母親に言ったそうです。釈迦は、その実で薬を
作って、子供を生き返らせてあげると伝えたそうです。
母親は必死になって、「死人を出したことの無い家」を
探し回ったのですが、当然そのような家などあるはずもないのでした。
母親は、失意の中、釈迦の意向に気がつくのです。
この世に生きる人々が大切な人を失って、それでもなお
強く生きていることを。自分だけが悲しみの中にいる訳では
ないことを十分に納得するのでした。
釈迦は「この世に生を受けしものは、そのものにしか果たせない
役割を持って生まれてくる、死んだ子も、お前を仏の道に
導いた」と諭したと言います。
この話をされる方は大概「大事な」ポイントである「ケシノミ」
について触れていません。
私は、「なぜ芥子の実」なんだろうと最初に思いました。
貰ってくるものは何でも良かっただろうに。
実は、当時のインドでは「芥子の実」は、何処の家庭にでもある、
極々当たり前の「食材」というか「調味料」だったのです。
今で言う「胡椒」だとか「醤油」みたいなものです。
つまり「簡単に手に入る」ものが「簡単に手に入らないもの」に
化けるところが「みそ」なのです。
「簡単に手に入らない理由」が付いてしまえば、「あっても無い」
ことと同等になってしまいます。
実は、そういった「もの」や「思想」は、この世に溢れかえっています。
似ているものに「矛盾」があります。「たて」と「ほこ」です。
「こだわり」と「ないものねだり」は似ているのかもしれません。
今日も設計を少しだけしました。
友人との会話は大変に貴重だったと今、思い出しています。
森の中で食べた1斤のパンが、色々と考えさせてくれました。
仕事の手を休めて、一日森にいたこと。急いている休日に
手を休めて話に花を咲かせたこと。
見渡すゆとりが無ければ、ひとつも手に入ることが無かったでしょう。
ゆっくり生きる事は、とても大切なことなのです。

2016年04月28日
おばけの森のイベント便り
さて明日の29日、GWのスタートですね。
「おばけの森」みねやまで今年最初のイベントが
開かれます。第一弾は去年同様に「植樹イベント」です。
去年は桜の木を50本程植えました。
ですが、全部、鹿に食われてしまったという。
今年は本数を減らし、色々な木を植える方向に転換です。
森を育てることを小さなお子さんにも知って頂きたくて、
この会を企画しました。
山の木は切る、植えるを繰り返さないと山は死んで
しまいます。森がなくなるという事は私たちの生活に
大きく影響を及ぼします。
廻りまわってやってくる「水」も飲めなくなってしまいます。
私たち人間が地上に生き続ける限り、自然に対して
関心を持たない訳にはまいりません。
どうか、楽しみながら自然の存在を身近に感じてください。
イベントの参加申し込みは締め切ってしまいましたので、
参加者多数の場合、昼食などが廻らない場合もあります。
ですが、当日、突然のご参加も歓迎いたします。
朝の10:00に会は、スタートします。
住居表示のある場所では無いので、参加ご希望の方は、
「静岡市葵区杉尾 ヘリポート避難所」を目印に
お越しください。連絡先をお知らせしておきますが、
電波状況も悪く、作業中ですと電話に出られないかもしれません。
朝早くにご連絡を頂けます様お願い申し上げます。
090-6088-5212 本多
参加費用 大人 ¥500-です。
お米を一人「1合」持参してください。


おばけの森Facebook
https://www.facebook.com/obakenomorimineyama
「おばけの森」みねやまで今年最初のイベントが
開かれます。第一弾は去年同様に「植樹イベント」です。
去年は桜の木を50本程植えました。
ですが、全部、鹿に食われてしまったという。
今年は本数を減らし、色々な木を植える方向に転換です。
森を育てることを小さなお子さんにも知って頂きたくて、
この会を企画しました。
山の木は切る、植えるを繰り返さないと山は死んで
しまいます。森がなくなるという事は私たちの生活に
大きく影響を及ぼします。
廻りまわってやってくる「水」も飲めなくなってしまいます。
私たち人間が地上に生き続ける限り、自然に対して
関心を持たない訳にはまいりません。
どうか、楽しみながら自然の存在を身近に感じてください。
イベントの参加申し込みは締め切ってしまいましたので、
参加者多数の場合、昼食などが廻らない場合もあります。
ですが、当日、突然のご参加も歓迎いたします。
朝の10:00に会は、スタートします。
住居表示のある場所では無いので、参加ご希望の方は、
「静岡市葵区杉尾 ヘリポート避難所」を目印に
お越しください。連絡先をお知らせしておきますが、
電波状況も悪く、作業中ですと電話に出られないかもしれません。
朝早くにご連絡を頂けます様お願い申し上げます。
090-6088-5212 本多
参加費用 大人 ¥500-です。
お米を一人「1合」持参してください。


おばけの森Facebook
https://www.facebook.com/obakenomorimineyama
2016年04月27日
へったくそなプロパガンダ
仕事、獲れませんでした(笑)
昨日、一本の電話が入りましてね。
存じ上げては、いるのですが、初めてお声を聴いたという。
仕事の問い合わせですよ!!
この拙い手記を御覧になられて、なんとなく興味を
お持ち頂き、仕事に関心を寄せて頂いたという。
で。
なにやら仕事の仲介をして頂いたようなニュアンス。
正直、今「気が変になりそう」な程に「1件」に
集中している状態なので、急ぎの仕事は難しいと丁重に
お断りするも、一応、仕事に繋がるように「よろしく」
的なことも付け加えて電話を切ったと。
そりゃ私もビジネスマンの片鱗くらいは持っております。
すると、その仲介先のクライアントが「このブログ」を
お読みになられて「高尚過ぎる」「大層ご立派な」
「建築家様」になど、丁稚がやるような仕事は発注できないと、
丁寧にお断りのご連絡を頂きました。
....................ですね。
私は自分では「尊大」な態度を取っているとは微塵も
思っていないのですが。
嫌、むしろ、お会いになられた方なら十分にご納得
頂けると思いますが、私は相当に腰が低く、且つジェントルな
「アホウ」なんでございます。
他にもクライアントから「ホームページが駄目だ」とか、
「宣伝が下手」だとか、今朝は「弁当の写真を宣伝に使え」
だとかって、まぁ散々「文句」を言われるんでございます。
あのね、俺はウェブデザイナーだった時期だってあるんだよ!!
潰れちゃった会社だけど、支社長までやったんだよ!!
言われなくたって分かってるってんだよ!!
じゃあなんで、そんな大事なことを野放図にしているかっていうとね。
疲れたんだよ。
そう早い話が疲れた、面倒になった、「嫌」になったんだ。
建築を生業にしようと思い立ったときに、誓ったことがある。
それは「勉強しない」ということ。
時々この事には触れているので、ご存知の方もいるかもしれない。
私は若い時分に絵描きになりたかったり、写真家になりたかったり、
ミュージシャンになりたかったりした。
根っから真面目なので、興味が沸くと、ありとあらゆる媒体で、
情報を得ようとする。これは危ないんだ。
必ず「ひと」の影響を受けてしまう。
私は、どれもこれも「OOみたいだね」と言われ続けて来た。
どれだけオリジナリティを追求しても、影響された「OO」の
影がチラついてしまうのだ。自分でも分かっていた。
だから建築を「本気」で始めるに当たって、もう絶対に「他人の作品」
だけは見ないようにしようと心に決めた。
困ったことに資格試験には、人の作品だの人の思想などについて
問われる設問が結構ある。
「自分の建築」というものが、なんとなく出来たような気がした
時から、他人の作品の閲覧を解禁した。
それでも必要以上には見ないようにしている。
とても興味はあるのだが。
資料価値の有るものは、なるべく記憶に残すようにもなった。
先だって、やはり知人からFacebookで繋がらなければ良かったと
言われた。申請しておいて、それはないだろうと憤った。
どうやら私の「深層」な部分を知りたくなかったらしい。
知らねーよ!!なんである。
人間に深みが無かったら、それは「ただの動物」だ。
知りえないだけで、誰にでも「難しい部分」は存在している。
そこを想像しながら人付き合いをすることが、することこそが
「思慮」というものなのだ。
先にも言ったように「面倒」になったと言うよりは、「嫌」に
なったと言う方が的を得ている。
私は「嘘」や「駆け引き」が大嫌いだ。
この世で一番大切なものは「自由」、もっとも憎むべきは「嘘」と
きっぱりと言ってのけられる。
自分の気持ちを偽る。それは、もう「嘘」の出発点以外の何ものでもない。
自分を良く見せようだとか、嫌われない様にしようだとかってのは、
紛うことなく「嘘」なんである。
それは大変に疲れることだ。
そして何より「哀れ」なことであるのだ。
自分を哀れんで生きるなどとは、絶対に許容できない。
だから止めた。それだけの話だ。
どれだけ「繕って」みたところで、誰にも何も非難されない、
中傷されないなんてことは絶対に無い。
どれだけ「装って」みたところで、誰にもかれにも賞賛される
なんてことは絶対に在り得ないのだ。
私を苦手な人は「偽善者」で「嘘つき」な人間だろう。
「無垢」な人間は利用されやすいが、付き合いにくい。
自分が窮屈になるからだ。
それで良い。
私は、これっぽっちも窮屈でないのだから。
まぁ弁当の写真をFBに載せる事は「嘘」をついている訳では無いので、
気が向いたら載せようと思う。
ただ、朝は一日で一番時間が無いのだよ。
心筋梗塞を起こしそうなほど、もうろうとした一日の始まりなんだよ。
みんなが出て行って、初めて安心できるんだよ。
それが私の朝なんだよ。
昨日、一本の電話が入りましてね。
存じ上げては、いるのですが、初めてお声を聴いたという。
仕事の問い合わせですよ!!
この拙い手記を御覧になられて、なんとなく興味を
お持ち頂き、仕事に関心を寄せて頂いたという。
で。
なにやら仕事の仲介をして頂いたようなニュアンス。
正直、今「気が変になりそう」な程に「1件」に
集中している状態なので、急ぎの仕事は難しいと丁重に
お断りするも、一応、仕事に繋がるように「よろしく」
的なことも付け加えて電話を切ったと。
そりゃ私もビジネスマンの片鱗くらいは持っております。
すると、その仲介先のクライアントが「このブログ」を
お読みになられて「高尚過ぎる」「大層ご立派な」
「建築家様」になど、丁稚がやるような仕事は発注できないと、
丁寧にお断りのご連絡を頂きました。
....................ですね。
私は自分では「尊大」な態度を取っているとは微塵も
思っていないのですが。
嫌、むしろ、お会いになられた方なら十分にご納得
頂けると思いますが、私は相当に腰が低く、且つジェントルな
「アホウ」なんでございます。
他にもクライアントから「ホームページが駄目だ」とか、
「宣伝が下手」だとか、今朝は「弁当の写真を宣伝に使え」
だとかって、まぁ散々「文句」を言われるんでございます。
あのね、俺はウェブデザイナーだった時期だってあるんだよ!!
潰れちゃった会社だけど、支社長までやったんだよ!!
言われなくたって分かってるってんだよ!!
じゃあなんで、そんな大事なことを野放図にしているかっていうとね。
疲れたんだよ。
そう早い話が疲れた、面倒になった、「嫌」になったんだ。
建築を生業にしようと思い立ったときに、誓ったことがある。
それは「勉強しない」ということ。
時々この事には触れているので、ご存知の方もいるかもしれない。
私は若い時分に絵描きになりたかったり、写真家になりたかったり、
ミュージシャンになりたかったりした。
根っから真面目なので、興味が沸くと、ありとあらゆる媒体で、
情報を得ようとする。これは危ないんだ。
必ず「ひと」の影響を受けてしまう。
私は、どれもこれも「OOみたいだね」と言われ続けて来た。
どれだけオリジナリティを追求しても、影響された「OO」の
影がチラついてしまうのだ。自分でも分かっていた。
だから建築を「本気」で始めるに当たって、もう絶対に「他人の作品」
だけは見ないようにしようと心に決めた。
困ったことに資格試験には、人の作品だの人の思想などについて
問われる設問が結構ある。
「自分の建築」というものが、なんとなく出来たような気がした
時から、他人の作品の閲覧を解禁した。
それでも必要以上には見ないようにしている。
とても興味はあるのだが。
資料価値の有るものは、なるべく記憶に残すようにもなった。
先だって、やはり知人からFacebookで繋がらなければ良かったと
言われた。申請しておいて、それはないだろうと憤った。
どうやら私の「深層」な部分を知りたくなかったらしい。
知らねーよ!!なんである。
人間に深みが無かったら、それは「ただの動物」だ。
知りえないだけで、誰にでも「難しい部分」は存在している。
そこを想像しながら人付き合いをすることが、することこそが
「思慮」というものなのだ。
先にも言ったように「面倒」になったと言うよりは、「嫌」に
なったと言う方が的を得ている。
私は「嘘」や「駆け引き」が大嫌いだ。
この世で一番大切なものは「自由」、もっとも憎むべきは「嘘」と
きっぱりと言ってのけられる。
自分の気持ちを偽る。それは、もう「嘘」の出発点以外の何ものでもない。
自分を良く見せようだとか、嫌われない様にしようだとかってのは、
紛うことなく「嘘」なんである。
それは大変に疲れることだ。
そして何より「哀れ」なことであるのだ。
自分を哀れんで生きるなどとは、絶対に許容できない。
だから止めた。それだけの話だ。
どれだけ「繕って」みたところで、誰にも何も非難されない、
中傷されないなんてことは絶対に無い。
どれだけ「装って」みたところで、誰にもかれにも賞賛される
なんてことは絶対に在り得ないのだ。
私を苦手な人は「偽善者」で「嘘つき」な人間だろう。
「無垢」な人間は利用されやすいが、付き合いにくい。
自分が窮屈になるからだ。
それで良い。
私は、これっぽっちも窮屈でないのだから。
まぁ弁当の写真をFBに載せる事は「嘘」をついている訳では無いので、
気が向いたら載せようと思う。
ただ、朝は一日で一番時間が無いのだよ。
心筋梗塞を起こしそうなほど、もうろうとした一日の始まりなんだよ。
みんなが出て行って、初めて安心できるんだよ。
それが私の朝なんだよ。
2016年04月26日
2016年04月25日
日本人
俺って、やっぱ日本人なんだなと思う。
何年くらい日本人やってるんだろう。
生まれ変わっても生まれ変わっても、
それでも日本人なのかな。
最近、ずっと日本人だったように感じる。
だとすると、それは大変な苦痛だ。
何年くらい日本人やってるんだろう。
生まれ変わっても生まれ変わっても、
それでも日本人なのかな。
最近、ずっと日本人だったように感じる。
だとすると、それは大変な苦痛だ。
2016年04月24日
拡大
どうでも良い様なことに延々と拘る。
精神異常者ならではか。
建築の設計図は「縮尺」を使い分ける。
全体像を把握したい場合、これは1/100を使うことが
圧倒的に多い。平面図や立面図などだ。
だが、もう少し詳細に平面図を使って仕上げなどを
確認したい場合、これは1/100では小さすぎて
書き込めないし、見づらくて適わない。
そこでもっと拡大して図面を書くことになる。
一般的には、1/50を使うだろう。
断面図なども1/50で書かれる。矩形図と違って、
天井の高さや窓の取り付け高さなどを確認する
ために使われるので、1/50程度あれば事足りる。
問題なのは「平面詳細図」だ。
私は正直、平面詳細図は施工図だと思っているので、
施工者が書けば良いと思っていた。
実際、詳細図には100%を書き込む訳ではない。
仕様書や仕上表を確認しながらの施工になるのだ。
また設計者との話し合いで設計内容を十分に理解して、
分からない事は「都度」設計者に尋ねながら工事をする
ことは至極当たり前のことなのだ。
それが最近では、ハウスメーカーが工事現場を「丸投げ」
するようなスタイルで行っているため、平面図に
書き込めるだけ書き込んで、あとは大工の責任に
するという、ずさんな工事が横行しているせいで、
この平面詳細図を設計者が書くということが当たり前に
なったきたように思う。
私は重要な納まりについては「部分詳細図」を書いて、
他の共通した仕様の部分については標準、または
共通仕様書を作るべきだと思っている。
そうでないと図面が「ぐちゃぐちゃ」になって、
満足に読めないと思うのだ。
そもそも「読む気にすらなれない」と思うのである。
さて、その平面詳細図。
問題は縮尺を「紙」に合わせる必要があるのだ。
最近では相当に大きな建物でもない限り、A3で出力
されることが一般的になった。
役所でもA3を欲しがる。もちろんマンションや大きな
ビルなどは、到底A3に納める事は出来ない。
だが「住宅」程度であればA3に納めることが使うにも、
しまうにも便利であるのだ。
建築面積が小さなものであれば1/50が可能であるが、
正直これは「狭小住宅」の範疇であろう。
少し大きくなると1/60で書くことが多い。
というか、もう詳細図を1/60で書いている時点で、
「本当に意味があるのか?!」と疑問に思ってしまう。
小さな文字は虫眼鏡を使わないと読めやしない。
矩形図もだ。断面詳細図ともいう。
これを1/20で書こうと思ったら、もうA3で、という
発想は完全に絶たれる。やたらに矩形図を欲しがる
施工者がいるが、部分的に「おざなりの一枚」を貰って、
一体なんの足しにするというのだろうか。
建物をきちんと半分にカットした図を大きく
書かないことには、施工のイメージが掴めないと思うのだ。
従って、役所に提出するような図面はA3に納まる
縮尺で作成し、実際に工事に使う、または施主に納める
設計図は「A2」以上で書くべきだと私は思っている。
と言ったが、殆どがA3でまとまる仕事ばかりなのが
悲しいといえば悲しいのだが。
実は、私の基準は「紙媒体」ではない。
そうだ。データならPCでいくらでも拡大できる。
本物以上に大きくすることだって可能なのだ。
1/30で書かれている矩形図。プリントアウトでは線も
細かくて、結局は「数字」だけしか見てもらえない。
しかし、私の図面は拡大するとちゃんと部分詳細図として
使えるほどに詳細に、実際的に書き込んである。
だが、どうなのだろう。
使ってくれるのだろうか。
散々丁寧に書いても必ずといって
「ジェーダブリューでください」と言われる。
本気で頭にきているが「dxfで良いですか?」と答える。
私のソフトではdxf形式でデータを出すことが出来るのだが、
グループ化してあると、もう図面が滅茶苦茶になって
しまうのである。3Dデータが含まれていても駄目なのだ。
散々苦労して図面を書いて、施工者のために、またまた
苦労をしてデータを出力する。
一体、どれだけ甘えた業界になったのだろう。
メーカーからはCADデータが普通に手に入る。便利だ。
我々は、ひとつひとつ作っていたのだが。
この「貰える」が当たり前になって、建築家が作った
設計図を「ふろく」みたいに扱う施工者が増えた。
時間短縮は、コストダウンに繋がる。
無駄な図面は極力書かないことが良い。
それより、詳細図、欲しくねーのか?!と心で叫んでいる。
精神異常者ならではか。
建築の設計図は「縮尺」を使い分ける。
全体像を把握したい場合、これは1/100を使うことが
圧倒的に多い。平面図や立面図などだ。
だが、もう少し詳細に平面図を使って仕上げなどを
確認したい場合、これは1/100では小さすぎて
書き込めないし、見づらくて適わない。
そこでもっと拡大して図面を書くことになる。
一般的には、1/50を使うだろう。
断面図なども1/50で書かれる。矩形図と違って、
天井の高さや窓の取り付け高さなどを確認する
ために使われるので、1/50程度あれば事足りる。
問題なのは「平面詳細図」だ。
私は正直、平面詳細図は施工図だと思っているので、
施工者が書けば良いと思っていた。
実際、詳細図には100%を書き込む訳ではない。
仕様書や仕上表を確認しながらの施工になるのだ。
また設計者との話し合いで設計内容を十分に理解して、
分からない事は「都度」設計者に尋ねながら工事をする
ことは至極当たり前のことなのだ。
それが最近では、ハウスメーカーが工事現場を「丸投げ」
するようなスタイルで行っているため、平面図に
書き込めるだけ書き込んで、あとは大工の責任に
するという、ずさんな工事が横行しているせいで、
この平面詳細図を設計者が書くということが当たり前に
なったきたように思う。
私は重要な納まりについては「部分詳細図」を書いて、
他の共通した仕様の部分については標準、または
共通仕様書を作るべきだと思っている。
そうでないと図面が「ぐちゃぐちゃ」になって、
満足に読めないと思うのだ。
そもそも「読む気にすらなれない」と思うのである。
さて、その平面詳細図。
問題は縮尺を「紙」に合わせる必要があるのだ。
最近では相当に大きな建物でもない限り、A3で出力
されることが一般的になった。
役所でもA3を欲しがる。もちろんマンションや大きな
ビルなどは、到底A3に納める事は出来ない。
だが「住宅」程度であればA3に納めることが使うにも、
しまうにも便利であるのだ。
建築面積が小さなものであれば1/50が可能であるが、
正直これは「狭小住宅」の範疇であろう。
少し大きくなると1/60で書くことが多い。
というか、もう詳細図を1/60で書いている時点で、
「本当に意味があるのか?!」と疑問に思ってしまう。
小さな文字は虫眼鏡を使わないと読めやしない。
矩形図もだ。断面詳細図ともいう。
これを1/20で書こうと思ったら、もうA3で、という
発想は完全に絶たれる。やたらに矩形図を欲しがる
施工者がいるが、部分的に「おざなりの一枚」を貰って、
一体なんの足しにするというのだろうか。
建物をきちんと半分にカットした図を大きく
書かないことには、施工のイメージが掴めないと思うのだ。
従って、役所に提出するような図面はA3に納まる
縮尺で作成し、実際に工事に使う、または施主に納める
設計図は「A2」以上で書くべきだと私は思っている。
と言ったが、殆どがA3でまとまる仕事ばかりなのが
悲しいといえば悲しいのだが。
実は、私の基準は「紙媒体」ではない。
そうだ。データならPCでいくらでも拡大できる。
本物以上に大きくすることだって可能なのだ。
1/30で書かれている矩形図。プリントアウトでは線も
細かくて、結局は「数字」だけしか見てもらえない。
しかし、私の図面は拡大するとちゃんと部分詳細図として
使えるほどに詳細に、実際的に書き込んである。
だが、どうなのだろう。
使ってくれるのだろうか。
散々丁寧に書いても必ずといって
「ジェーダブリューでください」と言われる。
本気で頭にきているが「dxfで良いですか?」と答える。
私のソフトではdxf形式でデータを出すことが出来るのだが、
グループ化してあると、もう図面が滅茶苦茶になって
しまうのである。3Dデータが含まれていても駄目なのだ。
散々苦労して図面を書いて、施工者のために、またまた
苦労をしてデータを出力する。
一体、どれだけ甘えた業界になったのだろう。
メーカーからはCADデータが普通に手に入る。便利だ。
我々は、ひとつひとつ作っていたのだが。
この「貰える」が当たり前になって、建築家が作った
設計図を「ふろく」みたいに扱う施工者が増えた。
時間短縮は、コストダウンに繋がる。
無駄な図面は極力書かないことが良い。
それより、詳細図、欲しくねーのか?!と心で叫んでいる。
2016年04月23日
甲斐 腑甲斐無い
そう思ったらお終いだってことがある。
不思議なもので、事実を事実だと認めるのには
結構な神経を使う。
最近、頻繁に話題に上がる「発言」についてもだ。
目の前にあることを「そのまま」認めることは
勇気がいることでもある。
「甲斐」を辞書で引くと
1.行動の結果として現れるもの
2.期待できるだけの値打ち
とある。
さて私のPCでは、「ふがいない」と入力すると
「不甲斐ない」と出てくる。
これでは「腑に落ちない」である。甲斐という一種、
「良いこと」を「不」という否定的な字で打ち消して、
なお「無い」というのでは「二重否定」である。
辞書にも「不甲斐ない」と載っているではないか?!
「ふがいない」は「腑甲斐無い」が正解だ。
「腑」は臓物のことだが、ここは「心底」って意味だろう。
本当に情けないって意味だ。
「年甲斐も無い」ってのを引き合いに出すと分かりやすい。
歳を取ったのに「生きてきた価値」を持っていないって
ことと同じ意味で使われるのだ。
大変に重たい一文だ。
へりくだって、侘びの気持ちを表すときに使う。
でも心底、自分のことを「生きた価値の無い人間だ」と
思って言っている人は、凡そいないだろう。
ただ。
本当に、そう自覚している人間が、心の中で、そう呟く
としたら。それは恐ろしいほどに最後が迫っているという
状態だと思う。
2.期待できるだけの値打ち
2.期待できるだけの値打ち
2.期待できるだけの値打ち
そんなもの無くたって生きていてはいけないのだろうか。
不思議なもので、事実を事実だと認めるのには
結構な神経を使う。
最近、頻繁に話題に上がる「発言」についてもだ。
目の前にあることを「そのまま」認めることは
勇気がいることでもある。
「甲斐」を辞書で引くと
1.行動の結果として現れるもの
2.期待できるだけの値打ち
とある。
さて私のPCでは、「ふがいない」と入力すると
「不甲斐ない」と出てくる。
これでは「腑に落ちない」である。甲斐という一種、
「良いこと」を「不」という否定的な字で打ち消して、
なお「無い」というのでは「二重否定」である。
辞書にも「不甲斐ない」と載っているではないか?!
「ふがいない」は「腑甲斐無い」が正解だ。
「腑」は臓物のことだが、ここは「心底」って意味だろう。
本当に情けないって意味だ。
「年甲斐も無い」ってのを引き合いに出すと分かりやすい。
歳を取ったのに「生きてきた価値」を持っていないって
ことと同じ意味で使われるのだ。
大変に重たい一文だ。
へりくだって、侘びの気持ちを表すときに使う。
でも心底、自分のことを「生きた価値の無い人間だ」と
思って言っている人は、凡そいないだろう。
ただ。
本当に、そう自覚している人間が、心の中で、そう呟く
としたら。それは恐ろしいほどに最後が迫っているという
状態だと思う。
2.期待できるだけの値打ち
2.期待できるだけの値打ち
2.期待できるだけの値打ち
そんなもの無くたって生きていてはいけないのだろうか。
2016年04月22日
鉄窓
てっそうって読みます。
現代では、窓と言えばアルミサッシが主流です。
昔々は金よりも高価だったアルミ。
簡単に作れるようになって激安になった。
軽くて加工も容易。
形を工夫すれば、丈夫なサッシを作れるのだ。
私は建築の実務につく前から「開口部」には
強い拘りがあった。
アーティストとしてだ。
窓があろうが有るまいが、枠があろうが有るまいが。
向こうを感じさせる部分なのだ。
向こうを表しているものが開口部だと
私は考えている。
本音で言えば用途は、二の次だ。
私が小さな頃の「清水市役所」と「太田医院」は
私のディテールの原点だ。
悩んだときの判断基準でもある。
市役所に母に手を引かれ時々行ったとき。
カウンターで用事を長々としている母を
待っていられず、役所のなかをうろつく。
窓の隅に入れてある「パテ」を指で押して
遊んだ。いたずらだとは思っていなかった。
当然、いけないことなんて思いもしなかった。
私の「窓」は間違いなく、この役所の鉄窓と
小さな頃住んでいた「長屋」の木製窓だ。
掃き出しは一箇所も無かった。全て腰窓だ。
独立したての頃、良く「スチールサッシ」を提案した。
ただの「ひとつ」も実施にならなかった。
お客も呆れた顔で嘲笑した。
工務店の社長も、さんざん馬鹿にした。
みんな知っていたからだ。その性能の低さを。
錆びる、立て付けが悪い。ガラスの交換が容易ではない。
アルミサッシに比べたら良いことなんて一つも
なかった。見つけられなかった。
でも私は見つけていた。
アルミのフラッシュサーフェスな表情も、もちろん
好きだ。でもアイアンの表情は格別なものだった。
黒皮とよばれる「そのまんま」のSS400は、私には
大して魅力に映らない。
塗装が繰り返され、もしくは錆が浮いて出た鉄は、
「祖母の手」を見ているようだった。
人差し指でサッシを、そっと撫ぜてみた。
パテを触ると軟らかかった。
ちょっと押してみた。小さな指紋が写った。
外は雨だった。
ガラスを叩く雨音を覚えている。
母は、少しイラついてるようだった。
私は、弟と二人で大人の会話を聞いていた。
難しくて分からなかった。
でも、そのときの記憶は鉄窓を見るたびに、鮮明に
思い出される。
鉄窓。
今日、数ヶ月ぶりに恩師の建築士に電話を入れた。
工務店は廃業してしまった。
実務を十分にこなした一級建築士だ。
この時期は「たけのこ」を持ちに来いと電話が来るはず
なのだが、今年も去年も無かった。高齢だ。
「ねえ、鉄窓の曲げのこと教えて欲しいんだけど」と
切り出すと、若い頃さんざん作った自慢話を始めた。
ろくでもないと散々馬鹿にした鉄窓をいつまでもいつまでも
語り続けた。微笑ましい。
結局、知りたかった事は教えてもらえなかったけれど、
気持ちが明るくなった。
この鉄窓を所望してるクライアントは「30代」。
私は50代。先生は70代後半。
三代の親子が「ひとつの」共通点で繋がれたような。
時代が変わっても変わらないものがある。
鉄窓を設計していて思う。
この窓の向こうの景色。
向こうの景色を見る小さな命。
触感と映像の記憶は次の世代に残せるだろうか。
私のディテールは私そのものなのだ。
現代では、窓と言えばアルミサッシが主流です。
昔々は金よりも高価だったアルミ。
簡単に作れるようになって激安になった。
軽くて加工も容易。
形を工夫すれば、丈夫なサッシを作れるのだ。
私は建築の実務につく前から「開口部」には
強い拘りがあった。
アーティストとしてだ。
窓があろうが有るまいが、枠があろうが有るまいが。
向こうを感じさせる部分なのだ。
向こうを表しているものが開口部だと
私は考えている。
本音で言えば用途は、二の次だ。
私が小さな頃の「清水市役所」と「太田医院」は
私のディテールの原点だ。
悩んだときの判断基準でもある。
市役所に母に手を引かれ時々行ったとき。
カウンターで用事を長々としている母を
待っていられず、役所のなかをうろつく。
窓の隅に入れてある「パテ」を指で押して
遊んだ。いたずらだとは思っていなかった。
当然、いけないことなんて思いもしなかった。
私の「窓」は間違いなく、この役所の鉄窓と
小さな頃住んでいた「長屋」の木製窓だ。
掃き出しは一箇所も無かった。全て腰窓だ。
独立したての頃、良く「スチールサッシ」を提案した。
ただの「ひとつ」も実施にならなかった。
お客も呆れた顔で嘲笑した。
工務店の社長も、さんざん馬鹿にした。
みんな知っていたからだ。その性能の低さを。
錆びる、立て付けが悪い。ガラスの交換が容易ではない。
アルミサッシに比べたら良いことなんて一つも
なかった。見つけられなかった。
でも私は見つけていた。
アルミのフラッシュサーフェスな表情も、もちろん
好きだ。でもアイアンの表情は格別なものだった。
黒皮とよばれる「そのまんま」のSS400は、私には
大して魅力に映らない。
塗装が繰り返され、もしくは錆が浮いて出た鉄は、
「祖母の手」を見ているようだった。
人差し指でサッシを、そっと撫ぜてみた。
パテを触ると軟らかかった。
ちょっと押してみた。小さな指紋が写った。
外は雨だった。
ガラスを叩く雨音を覚えている。
母は、少しイラついてるようだった。
私は、弟と二人で大人の会話を聞いていた。
難しくて分からなかった。
でも、そのときの記憶は鉄窓を見るたびに、鮮明に
思い出される。
鉄窓。
今日、数ヶ月ぶりに恩師の建築士に電話を入れた。
工務店は廃業してしまった。
実務を十分にこなした一級建築士だ。
この時期は「たけのこ」を持ちに来いと電話が来るはず
なのだが、今年も去年も無かった。高齢だ。
「ねえ、鉄窓の曲げのこと教えて欲しいんだけど」と
切り出すと、若い頃さんざん作った自慢話を始めた。
ろくでもないと散々馬鹿にした鉄窓をいつまでもいつまでも
語り続けた。微笑ましい。
結局、知りたかった事は教えてもらえなかったけれど、
気持ちが明るくなった。
この鉄窓を所望してるクライアントは「30代」。
私は50代。先生は70代後半。
三代の親子が「ひとつの」共通点で繋がれたような。
時代が変わっても変わらないものがある。
鉄窓を設計していて思う。
この窓の向こうの景色。
向こうの景色を見る小さな命。
触感と映像の記憶は次の世代に残せるだろうか。
私のディテールは私そのものなのだ。
2016年04月21日
誕生日
誕生日。
私は、目出度いとは微塵も思わない。
ただ地上で出会う人達には敬意を表したい。
人を演じきるのは並みではない。
そういう意味で誕生日には敬意を表している。
我が子には感謝も付け加える。
大変?
救われることの方が多い。
親子の関係は子が親を救うために天上で
話し合いの末、出来の悪い魂が先に
生まれて来るのだ。
冷静に考えれば十分に理解できる。
可哀想。
気の毒。
ごめんなさい。
それが私の誕生日という単語に湧く
インスピレーションだ。
どれだけペシミスティックな単語が
湧いて出ようとも、最後に私と子供を繋ぐ、
ただの一言「愛」があるお陰で、
誕生日を笑顔で感謝することが出来る。
唱和、愛してる。
お前がいるだけで、パパは生きている価値があるんだ。
愛してる。

私は、目出度いとは微塵も思わない。
ただ地上で出会う人達には敬意を表したい。
人を演じきるのは並みではない。
そういう意味で誕生日には敬意を表している。
我が子には感謝も付け加える。
大変?
救われることの方が多い。
親子の関係は子が親を救うために天上で
話し合いの末、出来の悪い魂が先に
生まれて来るのだ。
冷静に考えれば十分に理解できる。
可哀想。
気の毒。
ごめんなさい。
それが私の誕生日という単語に湧く
インスピレーションだ。
どれだけペシミスティックな単語が
湧いて出ようとも、最後に私と子供を繋ぐ、
ただの一言「愛」があるお陰で、
誕生日を笑顔で感謝することが出来る。
唱和、愛してる。
お前がいるだけで、パパは生きている価値があるんだ。
愛してる。

2016年04月20日
2016年04月19日
沈黙
立場の弱い人間は結局「黙り込む」しかなくなる。
少しでも愚痴を言いようなものなら、すぐさま
叩かれる。
結局、傷つきたくないから黙り込む。
勝った気でいるやつを殴り殺したい。
少しでも愚痴を言いようなものなら、すぐさま
叩かれる。
結局、傷つきたくないから黙り込む。
勝った気でいるやつを殴り殺したい。
Posted by アーバンギア at
20:02
│Comments(2)
2016年04月18日
2016年04月17日
日曜
憂鬱。
仕事は選んだ方がいい。
はだかるかべが面倒だ。
なんのために独立して、
一人で仕事してるのか
全く分からない。
仕事のてを広げると
ろくなことは無い。
今の仕事が終わったら貧乏覚悟で
人を選ぼうと思う。
仕事でなくて、人を。
仕事は選んだ方がいい。
はだかるかべが面倒だ。
なんのために独立して、
一人で仕事してるのか
全く分からない。
仕事のてを広げると
ろくなことは無い。
今の仕事が終わったら貧乏覚悟で
人を選ぼうと思う。
仕事でなくて、人を。
2016年04月16日
2016年04月15日
桜またうえようかい
おばけの森、シーズン開幕でございます!!
今年、第一弾のイベントは「桜またうえようかい」です。
去年植樹した桜は「全て」鹿に食われてしまいました。(泣)
今年は助成金も交付されたので、ちゃんと防獣対策もして、
リベンジしたいと思います。
例によって、参加希望の方は事前に予約をお願いします。
メールか電話をください。
090-6088-5212 本多まで
atelier@urbangeardesign.com


今年、第一弾のイベントは「桜またうえようかい」です。
去年植樹した桜は「全て」鹿に食われてしまいました。(泣)
今年は助成金も交付されたので、ちゃんと防獣対策もして、
リベンジしたいと思います。
例によって、参加希望の方は事前に予約をお願いします。
メールか電話をください。
090-6088-5212 本多まで
atelier@urbangeardesign.com


2016年04月14日
あっ?!!
矩形図。
地震ありましたね。
上っ面だけ報道されてますよね。
実際には、天ぷらや豚カツ揚げてた人が
油かぶっちゃって救急車出てますね。
お年寄りがタンスの角に頭ぶつけて
救急車呼んでますね。
大勢死にかけてますね。
被害を最小限にとどめる。
命をひとつでも救う。
私は命に関わる重責を担っている。
忘れたいと思う日々の連続だ。
安穏、平穏、憧れのらいふすたいるだ。
地震ありましたね。
上っ面だけ報道されてますよね。
実際には、天ぷらや豚カツ揚げてた人が
油かぶっちゃって救急車出てますね。
お年寄りがタンスの角に頭ぶつけて
救急車呼んでますね。
大勢死にかけてますね。
被害を最小限にとどめる。
命をひとつでも救う。
私は命に関わる重責を担っている。
忘れたいと思う日々の連続だ。
安穏、平穏、憧れのらいふすたいるだ。
2016年04月13日
2016年04月11日
タレント-才能
タレント。本来、というか、もうこれは「才能」という意味だ。
日本でタレントと言えばTVに出てくる芸能人だと受け取る。
しかし、これは英語のtalentからきている。才能、腕前、技量
などという意味の単語だ。
アメリカを起源にスタートした新人発掘番組「Got talent」。
各国で独自に製作されている。随分と沢山の稀有な才能を持つ
「埋もれた人」たちが輩出されたユニークな番組だ。
この番組に登場した一人の「人」の動画を視聴して、
涙せずにはいられなかった。
自分と重ね合わせたからだ。
私にはVに登場する女性ほど立派な才能は無いのだが、彼女の
気持ちが痛いほど分かったので、震えながら最後まで見た。
この女性が、この番組に出ようと思った気持ち。
オーディションをかいくぐって、やっとTVの予選まで出られた。
ここで最高のパフォーマンスを披露しようと、何度も繰り返し
練習をしたに違いない。何度も挫折しただろう。
生活に窮して、生きることに追われ、それでも最後の「一縷」の
望みを掛けて、精一杯出来る「おしゃれ」と「メイク」、誠意を
持った笑顔で本番に挑んだに違いない。
ここでチャンスを掴めなかったら終わりだと覚悟を決めてきた
かもしれない。そうだと分かる。
だが審査員たちは、非情にも彼女のパフォーマンスを最後まで
見ようとしなかった。1時間だとか半年だとか10年待っていろと
言っている訳では無いのに。たったの3分待てなかった。
観客を含め、彼らは、いったい「何を」待ち望んでいたのだろう。
神が与えし才能。それを努力という研鑽で開花させた、人知れず
咲いている壮麗な花を見ること、それが目的では無かったのか。
現代社会は「消費傾向」が加速している。
バブル期の消費傾向が納まったなんてのは経済的な事情だけだ。
人の心は、より短絡的になり、ロハスとは名ばかりの「無気力」
傾向が強まっているだけだと私は感じている。
ネットやスマートフォンの普及で、人々は、コミュニケーションの
採り方をラジカルに変えてしまった。
最後まで見届けて欲しい。
本気で求めているなら。本気で見てみたいなら。
本気で「出会い」たいのなら。
本来、才能に出会うには「才能」が必要だ。
だが、その才能も磨かれなければ生かされることは無い。
誰でも初心者から始めるのだ。
自分の直感を過信することなく、試されているのは「自分の方」
だということを覚えていて欲しい。
神は、何時でも私たちを試しているということを。
日本でタレントと言えばTVに出てくる芸能人だと受け取る。
しかし、これは英語のtalentからきている。才能、腕前、技量
などという意味の単語だ。
アメリカを起源にスタートした新人発掘番組「Got talent」。
各国で独自に製作されている。随分と沢山の稀有な才能を持つ
「埋もれた人」たちが輩出されたユニークな番組だ。
この番組に登場した一人の「人」の動画を視聴して、
涙せずにはいられなかった。
自分と重ね合わせたからだ。
私にはVに登場する女性ほど立派な才能は無いのだが、彼女の
気持ちが痛いほど分かったので、震えながら最後まで見た。
この女性が、この番組に出ようと思った気持ち。
オーディションをかいくぐって、やっとTVの予選まで出られた。
ここで最高のパフォーマンスを披露しようと、何度も繰り返し
練習をしたに違いない。何度も挫折しただろう。
生活に窮して、生きることに追われ、それでも最後の「一縷」の
望みを掛けて、精一杯出来る「おしゃれ」と「メイク」、誠意を
持った笑顔で本番に挑んだに違いない。
ここでチャンスを掴めなかったら終わりだと覚悟を決めてきた
かもしれない。そうだと分かる。
だが審査員たちは、非情にも彼女のパフォーマンスを最後まで
見ようとしなかった。1時間だとか半年だとか10年待っていろと
言っている訳では無いのに。たったの3分待てなかった。
観客を含め、彼らは、いったい「何を」待ち望んでいたのだろう。
神が与えし才能。それを努力という研鑽で開花させた、人知れず
咲いている壮麗な花を見ること、それが目的では無かったのか。
現代社会は「消費傾向」が加速している。
バブル期の消費傾向が納まったなんてのは経済的な事情だけだ。
人の心は、より短絡的になり、ロハスとは名ばかりの「無気力」
傾向が強まっているだけだと私は感じている。
ネットやスマートフォンの普及で、人々は、コミュニケーションの
採り方をラジカルに変えてしまった。
最後まで見届けて欲しい。
本気で求めているなら。本気で見てみたいなら。
本気で「出会い」たいのなら。
本来、才能に出会うには「才能」が必要だ。
だが、その才能も磨かれなければ生かされることは無い。
誰でも初心者から始めるのだ。
自分の直感を過信することなく、試されているのは「自分の方」
だということを覚えていて欲しい。
神は、何時でも私たちを試しているということを。
2016年04月10日
福耳
今日、気がついた。
「俺、耳たぶ、でっかくなってる!!」
触って分かった。
なんか、馬鹿に耳たぶ伸びるなとかって。
憧れの「福耳」ゲットだぜ。
全くの迷信だったことを体で証明したという。
「耳、デッカクなっちゃった!!」とかって、
古いギャグくらいしか思いつかんな...

今日は幸せっぽかったけど。
「俺、耳たぶ、でっかくなってる!!」
触って分かった。
なんか、馬鹿に耳たぶ伸びるなとかって。
憧れの「福耳」ゲットだぜ。
全くの迷信だったことを体で証明したという。
「耳、デッカクなっちゃった!!」とかって、
古いギャグくらいしか思いつかんな...

今日は幸せっぽかったけど。
2016年04月09日
建築設計業
「業」とはなんだろう。
こいつは「ぎょう」と読むか「ごう」と読むかで
大分ニュアンスが変わる。
私は建築設計を「生業(なりわい)」としている。
この「生業」とは「生活するための仕事」という意味だ。
生きるためだ。
建築士業。つまり建築士として仕事をすることだ。
資格が必要なのだ。資格を持って「登録」をして、初めて
建築士業をすることが出来る。
つまり生業だ。そうだ「生きる」ことが出来る訳だ。
でも。
生きていると言えるだろうか。生き生きと、ちゃんと
納税して、家族を養い、日々の暮らしに窮することなく
生きているだろうか。違う。全く、そのような理想とは
懸け離れている。
こんな「士業」にこだわっていなければ、もっと働き甲斐が
あって、よっぽど稼げる仕事は、いくらでもあるだろう。
「ごう」。一気に凄まじい重たさを持った意味になる。
サンスクリットが語源だ。
1 仏語。人間の身・口・意によって行われる善悪の行為。
2 前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。
「―が深い」「―をさらす」「―を滅する」
3 理性によって制御できない心の働き。
だそうな。
ごうとは主に悪行。前世の悪行の報いだ。
実に面白い。私は、この言葉ほど面白いと感じるものは無い
くらい、笑ってしまい、且つ深く気が沈んでしまうのだ。
本気で取り組んでいる仕事は上手く行かない事ばかりだ。
たいして金にもならない。
なのに、辞められない。負ける気がする。失いたくない。
そして「人の役に立てる」可能性を捨てたくない。
人間を辞めることと同等だと思っている。
今生を「捨てる」ことと等しいと私は思い込んでいるのだ。
辞めてしまいたいと何度思ったろう。
嫌、もう毎日考える。「別の人生」、「別の生き方」。
なんで俺は設計なんてやってるんだろう。
思わない日は無い。
私が設計をするのは、前世で「しでかした」報いを受けるため
なのだ。苦しければ苦しいほど気持ちが軽くなる。
もう生まれてくるなんて二度と御免だ。
今生を頑張りぬけば、もう天井から二度と降りてくる事は無い。
そう信じて無心に建築を検討している。
毎日毎日。
馬鹿みたいに。
人が出来ないことを代わりにやる。
これは私にとって今生の最大のテーマだ。
仕事に限らず「全て」に当てはめて考え生きている。
人が代わりになるのであれば私は必要ない。
私という人間が「たったの一人」この世に存在している。
「必要」だからだ。
私を必要としている人間がいる限り、私欲を捨て、人のために
生き、毎日を過ごすんだと何度も自分に言い聞かせる。
誰も言っては、くれない。
自分にしか分からない自分の心。
目をつぶって想像してみる。
空気の声や木々の声。
言葉なんて持っていないと誰もが妄信的に考えている「生き物」
たちの声や言葉を。
私に届く声は、きっともう真実と真理を語らない。
言葉によらない「心」を聞き分ける神器を身に着けたいと、
欲張ってしまう。
今日も「カルマ」と戦った一日だった。

私のSUNNY。
こちらの演奏は凄まじいですよ。是非ご視聴を。
本来の歌詞は是非検索してみて下さい。
こいつは「ぎょう」と読むか「ごう」と読むかで
大分ニュアンスが変わる。
私は建築設計を「生業(なりわい)」としている。
この「生業」とは「生活するための仕事」という意味だ。
生きるためだ。
建築士業。つまり建築士として仕事をすることだ。
資格が必要なのだ。資格を持って「登録」をして、初めて
建築士業をすることが出来る。
つまり生業だ。そうだ「生きる」ことが出来る訳だ。
でも。
生きていると言えるだろうか。生き生きと、ちゃんと
納税して、家族を養い、日々の暮らしに窮することなく
生きているだろうか。違う。全く、そのような理想とは
懸け離れている。
こんな「士業」にこだわっていなければ、もっと働き甲斐が
あって、よっぽど稼げる仕事は、いくらでもあるだろう。
「ごう」。一気に凄まじい重たさを持った意味になる。
サンスクリットが語源だ。
1 仏語。人間の身・口・意によって行われる善悪の行為。
2 前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。
「―が深い」「―をさらす」「―を滅する」
3 理性によって制御できない心の働き。
だそうな。
ごうとは主に悪行。前世の悪行の報いだ。
実に面白い。私は、この言葉ほど面白いと感じるものは無い
くらい、笑ってしまい、且つ深く気が沈んでしまうのだ。
本気で取り組んでいる仕事は上手く行かない事ばかりだ。
たいして金にもならない。
なのに、辞められない。負ける気がする。失いたくない。
そして「人の役に立てる」可能性を捨てたくない。
人間を辞めることと同等だと思っている。
今生を「捨てる」ことと等しいと私は思い込んでいるのだ。
辞めてしまいたいと何度思ったろう。
嫌、もう毎日考える。「別の人生」、「別の生き方」。
なんで俺は設計なんてやってるんだろう。
思わない日は無い。
私が設計をするのは、前世で「しでかした」報いを受けるため
なのだ。苦しければ苦しいほど気持ちが軽くなる。
もう生まれてくるなんて二度と御免だ。
今生を頑張りぬけば、もう天井から二度と降りてくる事は無い。
そう信じて無心に建築を検討している。
毎日毎日。
馬鹿みたいに。
人が出来ないことを代わりにやる。
これは私にとって今生の最大のテーマだ。
仕事に限らず「全て」に当てはめて考え生きている。
人が代わりになるのであれば私は必要ない。
私という人間が「たったの一人」この世に存在している。
「必要」だからだ。
私を必要としている人間がいる限り、私欲を捨て、人のために
生き、毎日を過ごすんだと何度も自分に言い聞かせる。
誰も言っては、くれない。
自分にしか分からない自分の心。
目をつぶって想像してみる。
空気の声や木々の声。
言葉なんて持っていないと誰もが妄信的に考えている「生き物」
たちの声や言葉を。
私に届く声は、きっともう真実と真理を語らない。
言葉によらない「心」を聞き分ける神器を身に着けたいと、
欲張ってしまう。
今日も「カルマ」と戦った一日だった。

私のSUNNY。
こちらの演奏は凄まじいですよ。是非ご視聴を。
本来の歌詞は是非検索してみて下さい。