2016年03月06日
波紋
私のお気に入りの場所があった。
今思い返せば、良くあんな「淋しい」場所に、小学生の
低学年で、一人でいられたものだと思うのだが。
「山原堤(やんばらづつみ)」。
明治時代に干害のために作られた溜池なのだが、
小学生の私には、琵琶湖くらいに感じていた。
そこでは、昔、遊んでいた子供が溺れて死んだという
話も伝えられていた。
くわがたやイモリを採りたくて、山に一人で出掛けてゆく
のだが、季節によっては夕方近くになると霧が立ち込めて
来て、静まり返った堤は、東山魁夷の絵のようだった。
もちろん誰一人いない。音もない。
どこからかコジュケイが鳴く声が聞こえてくる程度だ。
私は、足元にある石を拾って、堤に投げ入れた。
いくつもいくつもだ。
ボチャンという音と共に霧が立ち込める堤に美しい波紋が
広がるのだ。その様子が、私には大層美しく見えて、何度も
何度も、石を投げ入れさせたのだ。
堤の中心めがけて、思い切り石を投げる。
とても真ん中には届かないのだが、遠くに投げれば投げるほど、
波紋は大きく広がって、岸辺に届く様子が楽しみなのだ。
暫くやっていると、はっと我に返り、こんな淋しいところで、
一人で何をやっているんだろうと、慌てて自転車をこいで、
家に帰ったのをはっきりと覚えている。
波紋は「波」という字が入っているが、波では無い。
波紋は海には起きない。嫌、起きるのだが。
水が動かないでいることが条件だ。波紋は、押し寄せてはこない。
実は波のように押し寄せてくるものではないのだ。
だからいくら石を投げ入れても、水面に浮くものは揺られて
いるだけで、一向に岸には近づかない。
波紋は穏やかだった水面に動きを与えるが、決して流れを
変えてしまうほどの大きな力は無いのだ。
今、死んでしまおうと考えている人が、この世に何人くらい
いるだろうか。死ぬまでの事は無くとも、辛く、自分の
存在に疑問を感じ、呼吸をすることすら、ままならないという
人が、どこかに大勢いるのではないだろうか。
人が存在するという事は、誰かが存在する「幇助(ほうじょ)」に
なっているのだ。役になんて立たなくたって良い。
その幇助が、正義でも悪でも構わない。社会も人間も、一切の
秩序に基づかない存在で構わない。
人が一人存在していれば、他の生命の成り立ちを、それだけで
肯定しているのだ。
よく言われる「上手」とは反対の考えだ。
「無駄な命など無い」。それは、社会から見て語られる言葉だ。
そうじゃない。社会は、そんなに寛容じゃない。
犯罪者など、明日死んでも構わないと、誰でも思っている。
死んでも胸は痛まない。
違う。
無駄な命は無いとは、「個人」が意識して、「誰かを」慮って
初めて生きてくる言葉なのだ。
私は、とるにたらない下らない生命だと認識している。
だが、この私が石を投げ入れることで、それまで平坦だった
様子に動きを与えられるという自覚がある。
それが誰かのためなのか、なんなのかは、あまり意識していない。
ただ、確実に「動き」が生まれる。
今日一日、生きながらえたということは、どこかの誰かが
「生きた」という証だ。
死ぬるよりも生きた方が良い。
だから今日は良い。
今思い返せば、良くあんな「淋しい」場所に、小学生の
低学年で、一人でいられたものだと思うのだが。
「山原堤(やんばらづつみ)」。
明治時代に干害のために作られた溜池なのだが、
小学生の私には、琵琶湖くらいに感じていた。
そこでは、昔、遊んでいた子供が溺れて死んだという
話も伝えられていた。
くわがたやイモリを採りたくて、山に一人で出掛けてゆく
のだが、季節によっては夕方近くになると霧が立ち込めて
来て、静まり返った堤は、東山魁夷の絵のようだった。
もちろん誰一人いない。音もない。
どこからかコジュケイが鳴く声が聞こえてくる程度だ。
私は、足元にある石を拾って、堤に投げ入れた。
いくつもいくつもだ。
ボチャンという音と共に霧が立ち込める堤に美しい波紋が
広がるのだ。その様子が、私には大層美しく見えて、何度も
何度も、石を投げ入れさせたのだ。
堤の中心めがけて、思い切り石を投げる。
とても真ん中には届かないのだが、遠くに投げれば投げるほど、
波紋は大きく広がって、岸辺に届く様子が楽しみなのだ。
暫くやっていると、はっと我に返り、こんな淋しいところで、
一人で何をやっているんだろうと、慌てて自転車をこいで、
家に帰ったのをはっきりと覚えている。
波紋は「波」という字が入っているが、波では無い。
波紋は海には起きない。嫌、起きるのだが。
水が動かないでいることが条件だ。波紋は、押し寄せてはこない。
実は波のように押し寄せてくるものではないのだ。
だからいくら石を投げ入れても、水面に浮くものは揺られて
いるだけで、一向に岸には近づかない。
波紋は穏やかだった水面に動きを与えるが、決して流れを
変えてしまうほどの大きな力は無いのだ。
今、死んでしまおうと考えている人が、この世に何人くらい
いるだろうか。死ぬまでの事は無くとも、辛く、自分の
存在に疑問を感じ、呼吸をすることすら、ままならないという
人が、どこかに大勢いるのではないだろうか。
人が存在するという事は、誰かが存在する「幇助(ほうじょ)」に
なっているのだ。役になんて立たなくたって良い。
その幇助が、正義でも悪でも構わない。社会も人間も、一切の
秩序に基づかない存在で構わない。
人が一人存在していれば、他の生命の成り立ちを、それだけで
肯定しているのだ。
よく言われる「上手」とは反対の考えだ。
「無駄な命など無い」。それは、社会から見て語られる言葉だ。
そうじゃない。社会は、そんなに寛容じゃない。
犯罪者など、明日死んでも構わないと、誰でも思っている。
死んでも胸は痛まない。
違う。
無駄な命は無いとは、「個人」が意識して、「誰かを」慮って
初めて生きてくる言葉なのだ。
私は、とるにたらない下らない生命だと認識している。
だが、この私が石を投げ入れることで、それまで平坦だった
様子に動きを与えられるという自覚がある。
それが誰かのためなのか、なんなのかは、あまり意識していない。
ただ、確実に「動き」が生まれる。
今日一日、生きながらえたということは、どこかの誰かが
「生きた」という証だ。
死ぬるよりも生きた方が良い。
だから今日は良い。